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お茶の間博物館 412

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千葉県館山市

◆シリーズ 関東大震災と館山
(3)津波の被害と伝承
関東大震災についての記録は各地に残されていますが、今回は旧富崎小学校に残されていた「震災記録」をご紹介します。旧富崎小学校の「震災記録」は被災した小学校についてだけでなく、地域の被災状況も書き残しています。
「震災記録」によると、大地震の三十分後に洲崎方面から平砂浦へ海嘯(かいしょう)(津波)が押し寄せ、そのまま相浜の海岸や布良港付近を襲いました。そのため、富崎村は建物の倒壊よりも海嘯の被害が多く、相浜区では数十戸が流出し、布良区では十数戸が流出したと書かれています。「安房震災誌」によると、富崎村は70戸が流出し、西岬村は1戸が流出したと報告されています。
来襲した津波は、洲崎に6m、相浜に9mと非常に大きな高さでしたが、人々は急いで高台に避難したため、津波にさらわれた人はいなかったようです。
地震後に海水が引くと津波が来ることは、大正時代もよく知られていました。富崎地区相浜の蓮寿院には、元禄16年(1703)に発生した地震による津波(元禄津波)の犠牲者86人を供養する供養塔が残されています。また、北条地区六軒町のサイカチの木は、元禄津波から避難した人が登って難を逃れたという話が伝わっています。
大きな地震や津波はその被害とともに語り継がれてきました。過去の災害教訓の伝承は、新たな災害による被害を減らすことにつながっているのです。

お茶の間博物館シリーズ「関東大震災と館山」は、広報令和5年5月号から隔月で連載中

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