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わたしのまちの文化財 vol.193 歴史をつなぐ修験の道

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和歌山県紀の川市

「道」は古くから人や物、情報の交流の舞台となってきました。人々が生活する手立てとして、道は拓かれ、次第に広域化し、一般的な生活道路となります。紀の川市では、古代の南海道や江戸時代の大和街道などがあてはまります。それとは別に特定の目的をもって作られた道があり、その一つに熊野古道や高野参詣道といった「祈りの道」、「信仰の道」があります。
本市にも祈りの道として高野山への参詣道がありますが、葛城修験の「修験の道」も忘れてはいけません。はじまりは、山岳に精霊や祖霊が宿ると信じた自然発生的な信仰からだとされています。やがて、大陸からもたらされた道教や密教などと関わり、次第に修験道が形成されました。一般的にその開祖とされているのが葛城山麓に居を構えた役行者です。その特別な力で鬼神を使役し、葛城山と金峯山に橋を架けたと伝えられるなど、さまざまな伝説が残されています。
修験は、生活する地域において祖霊や神が宿ると信じた山岳や滝などを尋ね、道を造り、険しい峰々を渡り歩くことで特別な力を得ることです。昔は集団的なものではなく、個々がそれぞれの地域で信仰していましたが、行動範囲は拡大し、点から線へ、線から面へと広がっていき、現在の修験道へとつながります。
葛城修験の重要な地である中津川行者堂・熊野神社と粉河寺を結ぶルートには、現在でも昔からあまり姿を変えていない道があります。それは、現在の中津川集落から中津川行者堂までの道で、1町(約109m)ごとに目印として町石が置かれた町石道です。今では失われているものもありますが、かつては12個の町石が置かれていました。
町石道と聞くと、世界遺産に登録されている高野山町石道を思い浮かべますが、同じような道が市内にもあることはあまり知られていません。多くの道は時代により姿を変え、道幅は広くなり、ルートは直線的になります。そうした中で、中津川の町石道は未だに複数の町石や石造物が道に沿って残っており、古くからの形を留めているものと考えられます。
狭く、険しい道で、現在の生活からすると不便な道ですが、本来の目的は信仰の道であり、修行の道です。この道を大昔から現在に至るまで数えきれない程の山伏が頭
巾(ときん)をかぶり、鈴懸(すずかけ)を着て、法螺(ほら)を吹きながら通ったことでしょう。現地を歩いてみると、そうした姿を想像し実感することができる、とても貴重で大切な歴史の道です。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)

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