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わたしのまちの文化財 vol.189 町衆の誇り 粉河祭 伯市講

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和歌山県紀の川市

江戸時代後期に刊行された「紀伊国名所図会」には粉河祭の渡御の様子や、それぞれの渡りものが絵を用いて描かれています。その中に粉川伯一(市)座という誇らしげに帯刀した裃姿の4人組が書かれています。伯一の伯はヲサ(長)・カシラ(頭)を意味し、一はイチ(市)・イチバ(市場)・マチ(町)の意味で、町の高い家柄の者たちの集まりという意味が込められていたと考えられます。
寛文5年(1665)に祭礼の次第を藩主へ差し出した「祭礼次第書上控」には、基本的な渡りものである「栗栖のヒトツモノ」「五位およびゆぼこ」「右馬頭およびゆぼこ」「随兵」「御幣および児」などが書かれていますが、伯一座は登場しません。伯一座は、江戸時代の前期から後期にかけて、粉河寺の鎮守である丹生社と若一王子社の神輿の巡航を支えた基本的な渡りものに追加される形で登場することになります。
江戸時代後期に伯一座が講組織に変化する前は、「伯市仲間」と称し、所属する仲間に相互扶助である融資を行う集まりでした。その経済力から村の役人である庄屋や肝煎を選出し、門前町の経済と政治を掌握していきます。伯市仲間は寛永8年(1631)に147人、寛政13年(1801)に105人、幕末期には161人で構成され、人数は大きく変化していません。
宝永6年(1709)の「伯市仲間貸付銀返済につき願書」には、家柄の良い者で樽代として銀30目を仲間に納めることで屋号を称し、伯市仲間への仲間入りを認められると書かれており、屋号を自由に称することができなかったことがわかります。また、享保5年(1720)に従来の屋号名改書を無効とし、新たに屋号名相続についての「定」が定められ、伯市仲間の家筋以外は仲間へ入れなくなり、より特権的な講組織となっていきます。
粉河祭では、全般の運営や祭道具の購入、貸出など経済面での運営全般を担いました。江戸時代前期は、粉河寺とその鎮守粉河産土神社が中心になって行う社寺中心の祭礼であったものが、後期になると、門前町の商工業者の集まりである講集団の伯市講が経済的な力を蓄積し、祭礼自体にも大きな影響を持つことになります。
現在、祭礼の運営は粉河祭保存会が担っており、伯市講は一つの団体として参加しています。江戸期の門前町の商工業者の誇りと経済力が、粉河祭の発展に大きな影響を与え、その運営を下支えしたといえます。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)

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