粉河寺本堂の左奥、階段を登った先、本堂を見守る場所に旧粉河村の総鎮守で粉河寺内の鎮守でもある粉河産土神社があります。別名「たのもしの宮」とも呼ばれ粉河寺を創建した大伴孔子古の息子、大伴船主が延暦年間(782~806)に丹生谷村から丹生神社を、東村から若一王子神社を勧進して粉河寺の鎮守としたのがはじまりとされています。
紀州三大祭として知られる粉河祭は、元は粉河寺の守護神である丹生神社の祭礼で六月会とも呼ばれ旧暦の6月18日に行われていました。今も渡御には正一位丹生大明神、丹生大明神、若一王子権現の三基の神輿が参加し、本殿前の広場に並んで据えられます。
記録によると、保延4年(1138)『徳大寺公能寄進状写』(御池坊文書)に「又丹生之霊社者、当寺(粉河寺)之鎮護也。」とあり、平安時代末期には、丹生神社が鎮座していたことがわかります。また『平家物語』延慶本「(平)惟盛粉河へ詣給仕」の中に、「伏シテ案レバ、神則霊験無雙之六廟祠」と記され、霊験無双の六廟祠と粉河寺とともに、都の平安貴族にも知られていたようです。戦国時代の粉河寺の境内を描いた「粉河寺参詣曼荼羅」にも6つの社が描かれています。
非常に栄えた粉河産土神社ですが、戦国時代の混乱期には、神社・祭礼は粉河寺とともに一時期衰退してしまいます。しかし、藤堂高虎や紀州徳川家の崇敬も厚く、初代徳川頼宣は、元和9年(1623)に粉河寺へ参詣し、粉河祭を取立て米の寄付をするなどして、その維持を図っています。
本殿の建物は、同寸法・同形式の社殿が2つ並び、向かって左が丹生津姫命を祀る丹生社、右が天忍穂耳命を祀る若一社で、一間社隅入春日造、正面軒唐破風付、銅板葺です。建築年代は、境内東にある天福社の擬宝珠銘が享保12年(1727)であり、本殿がこれより少し古い様相を示すことから、元禄末から宝永(1688~1711)頃にかけて同時に造られたものと考えられます。出組とする組物や軒まわりもいたって正当的な造りになっていて、一間社春日造の社殿としては規模が大きく、さすが粉河寺の鎮守だけのことはある壮麗な社殿です。
粉河寺に詣でた際には、平安貴族などの多くの人たちから崇敬を集めた霊験無双粉河産土神社まで、訪れてみてはいかがでしょうか。
※「粉河産土神社」の「土」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
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