天皇が居所から外出することをさす「行幸」は、行幸によりその土地に幸いがもたらされるということから名付けられています。その目的は国見や神祀りなどさまざまで、当初は祭祀・儀礼的性格が強くありました。一方、奈良時代以降では、律令制の下で全国的な一元支配の促進などを目的として行幸が行われました。その地方支配は、都からのびる七道駅路を介して行われ、紀伊国には南海道駅路が通過していました。
南海道は、時代によりルートが変遷し、奈良時代までは真土峠から橋本市へ入り、紀の川に沿って加太から淡路島、四国各県に繋がります。大化2年(646)に発せられた改新の詔で、かつらぎ町と紀の川市の境付近にある背山が畿内の南限とされると、紀の川市は紀伊国の玄関口となります。この時代、この南海道を通って紀伊国へ5回の行幸が行われました。飛鳥・白鳳期には都から斉明天皇、持統天皇、文武天皇が牟婁温湯へ行幸を行っています。奈良時代の724年には、平城宮から玉津島へ聖武天皇が行幸を行いました。紀伊国分寺が建てられる以前の風景は一体どういったものだったのでしょうか。692年には全国に545の寺院が建立され、那賀郡(紀の川市、岩出市)にも4寺が建てられました。疫病の流行や内政が混乱した時代。日本列島に急速に浸透した仏教文化とその荘厳な建物を目にし、仏教による国家鎮護を思い立ったのかもしれません。741年の国分寺建立の詔により紀の川市が誇る紀伊国分寺も756年に建立。765年に行幸を行った称徳天皇は、父親である聖武天皇の足跡を目の当たりにしたことでしょう。
各時代の天皇が通った南海道の正確な位置は現在でもわかっていません。当時の万葉びとが詠んだ歌や発掘調査などで見つかっている遺跡からその場所が推定されています。また、粉河地域には聖武天皇が行幸の途中で休息した玉垣勾頓宮跡や称徳天皇が休息した鎌垣行宮跡が伝えられています。古代の官道は幅6~12m程で、どこまでも真っ直ぐであると言われています。その道は、現在の道に一部は踏襲され、一部は私たちの足下に遺されています。紀の川北岸に広がる平野に延びる真っ直ぐな道を通り、周辺に広がる農村風景や紀の川の流れを見ながら、新しくもたらされた仏教文化を目にする。紀伊国への行幸は、律令制下の国の様子をうかがいながら、不安定な情勢である日常を忘れることのできた一時であったのかもしれません。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)
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