和歌山県を代表する芸術家、保田龍門は、明治24年(1891)に龍門村荒見の農家に生まれました。母性愛を生涯のテーマとし、全国各地に数百点にのぼる作品を残しています。昭和40年(1965)2月、大阪府の自宅で逝去し、今年は没後60年にあたります。
本名は重右衛門と言い、龍門と号しました。小さい頃から秀才で、荒見尋常小学校、荒見高等小学校高等四年、県立粉河中学校を卒業し、一時は医師を目指します。医科受験準備のため上京した際、東京の上野で開かれていた第3回文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の「落葉」と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指します。
20歳で太平洋画会研究所に入所し、デッサンの指導を受け、明治45年(1912)21歳で東京美術学校予備科(現在の東京藝術大学)に入学後、彫刻を学び、本科を次席で卒業。在学中に二科展に出品するなど、その才能を開花させ、卒業制作作品「母と子」は第11回文展で特選を得ました。
その後、活動の舞台を日本美術院に移し、油絵とともに彫刻研究所で研鑽を積みます。大正9年(1920)には渡米していた実兄を訪ね、その後、アメリカを横断。翌年にはヨーロッパに渡り「考える人」の作者オーギュスト・ロダンの助手であったアントワーヌ・ブールデルの教室で彫刻を習いました。
大正12年(1923)、に帰国後、龍門村に新宮市出身で文化学院の創設者・西村伊作設計のアトリエ付き住居を建て、作家として新たなスタートを切ります。
日本美術院を発表の舞台とし、戦後は大阪市立美術研究所、続いて和歌山大学芸術学部(現在の教育学部)で後進の指導にあたります。龍門が生きた時代は、明治維新後の近代化とともに他国と戦争を繰り返した激動の時代です。徴兵制を基礎とする軍隊が形成される中、勤勉実直な性格の龍門はさまざまな葛藤を抱えながら画家として活動しました。
そうした中で制作した作品は、和歌山県内に多く残されており、和歌山県庁舎のレリーフ「丹生都比売命」「高倉下命」や和歌山市の紀陽銀行本店の壁面レリーフ「春夏秋冬」もその1つです。
地元である、紀の川市にも多くの作品が遺されており、地域の小中学校や市が所有する作品も一部粉河ふるさとセンターに展示しています。郷里に愛情を注ぎ、生涯をかけて芸術を追求した龍門は、市が誇る人物の1人です。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)
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