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『戦国武将と高野山』第二十二回 島津義弘・忠恒 -後編 高麗陣敵味方供養碑を建立-

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和歌山県高野町

◆日本仏教の聖地「金剛峯寺」のお坊さんのおはなし

前回、薩摩島津(さつましまづ)家の墓所を二カ所ご紹介しました。最後に紹介する場所は、覚鑁(かくばんざか)を上がったところにあり、和歌山県指定史跡「高麗陣味敵方戦死者供養碑(こうらいじんてきみかたせんししゃくようひ)」の周辺です。高麗陣敵味方戦死者供養碑は慶長四年(一五九九)六月、島津義弘(よしひろ)(一五三五~一六一九)・忠恒(ただつね)(家久(いえひさ)、一五七六~一六三八)父子が建立した石碑で、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役、一五九二~九三/一五九七~九八)で戦死・病死した、味方だけでなく敵方の人々も供養する目的で作られたことが記されています。前号で書いたように、二人は戦地に赴き、大いに活躍しています。それはつまり、多くの敵方の命を奪い、また仲間や家来らの命も失っていることでしょう。特に、義弘の次男(長男は夭折(ようせつ))で忠恒の兄にあたる久保(ひさやす)は文禄二年(一五九三)九月八日、二十一歳の若さで朝鮮で病死しており、久保の死も建立の動機の一つであるように思います。この供養碑は、元は奥之院御供所の前、現在は手水(ちょうず)場がある付近に建っていました。江戸時代の絵図や文献によると、十八世紀頃までは御供所前にあり、その後、現在地に移されました。現在、供養碑の左隣には英文が刻まれた石碑が建っています。こちらは明治四十一年(一九〇八)に島津氏第三十代当主の島津忠重(ただしげ)(一八八六~一九六八)が建立したもので、供養碑の碑文を英訳しています。

供養碑の左にある石鳥居の向こうには石製の三重塔があり、こちらは義弘が琉球より持ってきたものが台風で倒壊し、再建したものとされ、異国の趣を感じる造形です。義弘の供養塔はその三重塔の左側にあり、忠恒のような巨大な五輪塔ではありませんが、総高一七〇cmの立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。銘文はすり減って読みにくくなっていますが、慶長十四年(一六〇九)とあり、義弘が存命中に自ら建てたものとみられます。その右隣、少し小さな宝篋印塔は久保の供養塔です。台座の銘文により文禄三年四月八日に建立されたことがわかり、おそらく文禄の役が休戦となり、帰国した義弘によって建立されたのではないかと思われます。義弘の、息子を失った悲しみと、義弘・忠恒の戦死者への鎮魂の思いが後世にまで伝えられ続けている場所です。

問合せ:高野山真言宗 総本山 金剛峯寺
【電話】0736-56-2011

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