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『戦国武将と高野山』第二十三回(最終回) 井伊直政 -奥之院にひっそり佇(たたず)む霊屋-

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和歌山県高野町

◆日本仏教の聖地「金剛峯寺」のお坊さんのおはなし

今回ご紹介するのは、彦根藩初代藩主の井伊直政(いいなおまさ)(一五六一~一六〇二)です。徳川四天王の一人で、大河ドラマ「どうする家康」での活躍で印象に残っている方も多いと思います。

遠江国伊井谷(とおとうみのくにいいや)(現在の静岡県浜松市)に生まれ、当時の井伊家当主である直盛(なおもり)が桶狭間(おけはざま)の戦いで戦死し、養子の直親(なおちか)(直政の父)が謀反(むほん)の疑いで今川氏真(うじざね)(今川義元の嫡男)の家臣に殺されると、井伊家は直盛の娘で「おんな城主」として知られる直虎(なおとら)が継ぎました。父が亡くなった時わずか二歳だった直政も今川氏に命を狙われますが、出家して生き延び、十五歳で徳川家康の小姓として仕えるようになり、この頃に井伊家の当主となったようです。武田信玄の家臣・山県昌景(やまがたまさかげ)らの軍が「武田の赤備(あかぞなえ)」と呼ばれる朱色の甲冑を身に着けていたのにならった「井伊の赤備え」で小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いや小田原攻めなど数々の戦で武功を立て、家康重臣の中では若手ながら筆頭に挙げられました。家康の江戸入りに伴い、上野国箕輪(こうずけのくにみのわ)(群馬県高崎市)十二万石を得て高崎藩初代藩主となります。

関ヶ原の戦いでは東軍指揮の中心となり、島津義弘(二十一・二十二回参照)の「島津の退(の)き口」では猛追するも鉄砲で撃たれて負傷し、義弘を逃しています。戦後処理にも尽力し、真田信之が父・昌幸と弟・信繁の助命を懇願(こんがん)した際には助力し、二人は高野山に送られました。これらの功により直政は石田三成の領地であった近江国佐和山(おうみのくにさわやま)(滋賀県彦根市)に十八万石で入るも、二年後の慶長七年(一六〇二)、四十二歳で死去します。佐和山近くに彦根城が築かれると、直政は彦根藩初代藩主とされました。

奥之院、中の橋の少し手前の山手に見える霊屋は「井伊掃部頭(かもんのかみ)墓所」と表記されていますが、これが直政の霊屋です。江戸時代中期の絵図には、この場所に二棟が描かれていますが(いずれも「井伊掃部頭」と記載)、現存するのは一棟のみで、中には直政の石塔(宝篋印塔(ほうきょういんとう))が安置されています。また周囲には彦根藩井伊家代々藩主の供養塔が並んでいます。霊屋はその形状から直政の没後すぐではなく、一七〇〇年前後に建てられたとみられていますが、奥之院に残る数少ない霊屋であり、残念ながら劣化が進んでいるため、早急な保護・修理が望まれます。

「戦国武将と高野山」は今回が最終回です。
二年間ありがとうございました。

問合せ:高野山真言宗 総本山 金剛峯寺
【電話】0736-56-2012

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