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『戦国武将と高野山』第一七回 結城秀康 -総石造りの霊屋(たまや)-

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和歌山県高野町

◆日本仏教の聖地「金剛峯寺」のお坊さんのおはなし

皆さんは今年の大河ドラマ「どうする家康」はご覧になっていますか?次々と生じる難題に毎回頭を悩ませる家康ですが、息子の結城(ゆうき)(松平(まつだいら))秀康(ひでやす)(一五七四~一六〇七)との関係もまた、悩ましいものだったようです。

秀康は家康と長勝院(ちょうしょういん)(別名於万方(おまんのかた)、小督局(こごうのつぼね))との子で、家康にとっては次男ですが、正室の築山殿(つきやまどの)が長勝院を家康の側室とは認めず、浜松城を退去させられてから産んだため、秀康は家康の子として公に認められない立場にありました。三歳で初めて家康と対面し、築山殿の死後にようやく家康の子として認知されたといいます。そういった経緯から天正七年(一五七九)に家康の長男・信康(のぶやす)が切腹させられても、後継者は秀康の弟にあたる秀忠(ひでただ)が選ばれました。

秀康は豊臣家へ養子に出されたのち、北関東の大名である結城家の婿(むこ)養子となり、小田原攻めや文禄・慶長の役(えき)にも出陣しました。武将としての才覚は家康からも評価されていたようです。関ヶ原の戦い(一六〇〇)の際は上杉景勝勢と対峙(たいじ)し、その働きから越前国(えちぜんのくに)(福井県)北庄(きたのしょう)六十八万石を与えられ、越前松平家の祖となりました。しかし越前での治世は短く、慶長十二年(一六〇七)、三十四歳の若さで病死しました。秀康が生前から松平姓を名乗っていたかは不明ですが、息子の忠直(ただなお)の代には松平となっています。

高野山で秀康といえば、奥之院御供所の手前にある「松平秀康及(およ)び同母(どうはは)霊屋(重文)」が有名です。奥之院には上杉謙信霊屋(重文、第七回参照)など木造の霊屋はいくつかありますが、この二棟は屋根瓦も含めて総石造り(母の方は内部に一部木材を使用)という、全国でも珍しい建物です。正面向かって左は慶長九年(一六〇四)に秀康が建立した母・長勝院(当時まだ存命で越前在住)の、右は慶長十二年(一六〇七)に忠直が建立した秀康の霊屋で、どちらも中には砂岩(さがん)製の供養塔が納められています。霊屋は福井市で産出される笏谷石(しゃくだにいし)で造られており、江戸時代初期に福井からわざわざ運ばれてきたと思うと、その手間と苦労は計り知れません。不遇だった母のため、そして忠直にとっては徳川初代将軍の息子である父を顕彰するため、このひときわ立派な霊屋を高野山に建立したことが想像されます。

問合せ:高野山真言宗 総本山 金剛峯寺
【電話】0736-56-2011

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