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『戦国武将と高野山』第一八回 北条氏直 -「小田原攻め」のその後-

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和歌山県高野町

◆日本仏教の聖地「金剛峯寺」のお坊さんのおはなし

高野山には戦に敗れた武将が蟄居(ちっきょ)(謹慎(きんしん))のために送られる場所となっていた、という面があります。俗世から隔絶された聖地であることと、各地の大名家にゆかりのあるお寺が生活の世話をできる、ということも一因のように思います。今回ご紹介するのはそのような戦国大名の一人、北条氏直(ほうじょううじなお)(一五六二~九一)です。

氏直は北条早雲(そううん)を祖とする小田原北条氏の第五代当主で、相模国(さがみのくに)(神奈川県)を中心として、氏直の代には関東一帯を領地としました。父は四代当主氏政(うじまさ)、母は武田信玄の娘・黄梅院(おうばいいん)です。北条氏本拠地の小田原城で生まれ、家督を継いでからは織田信長・徳川家康らと共に武田家を攻め滅ぼし、信長没後の混乱期を経て家康の娘を妻とし、徳川家と同盟を結びます。その後豊臣秀吉の勢力が拡大すると、秀吉が大名間の私闘を禁じたにもかかわらず、真田昌幸と領地争いをしたため(名胡桃城(なぐるみじょう)事件)、天正十八年(一五九〇)秀吉率いる大軍が小田原城を包囲します(小田原攻め)。三ヶ月におよぶ籠城(ろうじょう)ののち、北条方は降伏、父の氏政は切腹し、氏直は家康の婿(むこ)というのもあって助命され、高野山へ配流(はいる)となりました。同年八月十二日、重臣約三十名ら総勢三〇〇名と共に高野山に到着し、高室院で約半年の謹慎生活を送った頃、秀吉から許され一万石の領地を与えられて大名に復帰しましたが、天正十九年十一月四日、大坂で病死します。享年三十。跡継ぎがおらず、小田原北条氏は氏直の代で絶えましたが、氏直の領地は河内狭山藩(かわちさやまはん)(大阪狭山市付近)として、叔父の氏規(うじのり)の家系が幕末まで治めました。

氏直の供養塔は一の橋と中の橋の中間付近、参道から少し山手に入ったところにあります。北条家墓所にひっそりと建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)は一部が欠損し、文字も判読しにくいですが天正十八年(生前に建立?)か十九年と読めます。

ところで高野山内の「小田原通り」の名は、通りにある高室院に小田原北条氏の氏直が滞在したから、と言われますが、実際は平安時代の僧で高野聖(こうやひじり)の祖とされる教懐(きょうかい)上人(一〇〇一~一〇九三)が小田原(京都府加茂町)よりこの付近に移り住み、小田原聖(おだわらひじり)と呼ばれる集団を形成して活動したことに由来します。

問合せ:高野山真言宗 総本山 金剛峯寺
【電話】0736-56-2011

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