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昔から今も残る 高野町内の名所シリーズ(84)

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和歌山県高野町

◆応其供養塔(おうごくようとう)(高野山)

応其は近江の武士の家に生まれました。天正元年(1573)、38歳で高野山に上って得度しています。応其は五穀を絶ち、木の実を食す修行をしたことから木食(もくじき)上人ともいわれています。

応其は豊臣秀吉からの信頼が厚く、秀吉が天下を掌握し、根来、高野、熊野の三山に帰順を求めた際も高野山との仲介役となり、高野山の無条件降伏に尽力しました。根来は秀吉に逆らい焼き討ちにされましたが、一方高野山は応其に対する秀吉の信頼を反映して、高野山の所領が安堵されています。また、秀吉からの寄進で高野山に興山寺が建立され、興山寺は明治2年(1869)、青巖寺と合併し現在の金剛峯寺となりました。

弘法大師御廟前の西手に応其の五輪塔があります。この五輪塔は文禄4年(1595)に弟子によって建立されたものです。『紀伊国名所図会』に「銘文長し」とあるように、応其自身の修行の様子や、70あまりの堂塔を修復し、50あまりの池を新しく作ったりした応其の経歴がたくさん刻まれています。

また、奥之院のお茶処の向かい側には応其上人廟があります。

ほかにも奥之院には天正19年(1591)に建立された一石五輪塔の応其供養塔が残されています。この五輪塔は砂岩製で総高が約90cm。銘文に「天正十九年辛卯應其、興山上人、春二月初三日壽位」とあり、応其のために造立されたものです。応其は紀ノ川に橋を架けることに尽力したり、塩市を開いて商業を発展させたり、高野山に限らず橋本伊都・那賀地方でも活躍しています。高野山の中興の祖である応其の多くの遺跡をこれからも大切に守り続けていきたいと思います。

大名墓総合調査委員会/教育委員会

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