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『戦国武将と高野山』第一九回 京極高次 -浅井家との縁と大津城籠城(ろうじょう)-

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和歌山県高野町

◆日本仏教の聖地「金剛峯寺」のお坊さんのおはなし

前回に引き続き、戦に敗れて高野山に送られた武将をご紹介します。

京極高次(きょうごくたかつぐ)(一五六三~一六〇九)は近江国(おうみのくに)(滋賀県)小谷城(おだにじょう)で生まれ、母の京極マリア(マリアはキリシタンとしての洗礼名)は浅井長政(あざいながまさ)(第一三・一四回参照)の姉です。幼少期を織田の人質として過ごし、本能寺の変の直後、明智光秀に味方したことから秀吉に追われ、柴田勝家(この頃は長政の妻だったお市(いち)の方(かた)が、勝家に嫁いでいます)の元に逃れました。翌年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで勝家は秀吉に滅ぼされますが、高次の妹が秀吉の側室になっていたこともあって、高次は秀吉の家臣となり九州平定や小田原攻めで武功を上げます。また長政とお巿の方の次女・初(はつ)を正室とします(二人はいとこ同士)。初の姉は秀吉の側室・茶々(ちゃちゃ)(淀殿)ですので高次の出世は妹や妻の力が大きいともいわれ、近江大津六万石の大名となりましたが、秀吉没後は徳川家康と石田三成の対立が深まり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは家康らの東軍につき、大津城に籠城します。西軍の毛利元康(もうりもとやす)、立花宗茂(たちばなむねしげ)らの軍勢に攻められ九月十四日に降伏し、翌十五日に剃髪(ていはつ)して高野山に送られることになりました。しかしこの九月十五日がまさに関ヶ原での決戦の日であり、一万人を超える毛利・立花軍の参陣を防いだことが家康に評価され、ほどなく山を下りて若狭国(わかさのくに)(福井県)八万五千石を与えられ、小浜藩(おばまはん)初代藩主となりました。慶長十四年(一六〇九)、四十七歳で亡くなっています。

高野山奥之院には高次と父の高吉(たかよし)の供養塔があります。そのそばには籠城で討死した二十二名の家臣を供養する「大津籠城戦死者追弔碑(ついちょうひ)」があり、案内柱があるのでこちらをご存じの方は多いと思います。追弔碑は二基あり、高次らの供養塔を挟んで建立されています。なぜ二基あるのかは不明ですが、敗戦からの出世という転機、その影にあった家臣の犠牲という歴史を後世に伝えています。また高野山には慶長五年九月二十日付の、高野山に領地三百石を寄進することを記した『京極高次寄進状』が伝わっており(有志八幡講所蔵、高野山霊宝館保管)、短い滞在期間ながら高野山との深いつながりを感じます。

問合せ:高野山真言宗 総本山 金剛峯寺
【電話】0736-56-2011

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