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『戦国武将と高野山』第二十回 立花宗茂 -「大圓院(だいえんいん)」は宗茂のこと-

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和歌山県高野町

◆日本仏教の聖地「金剛峯寺」のお坊さんのおはなし

今回ご紹介するのは、前回名前の挙がった立花宗茂(たちばなむねしげ)(一五六七~一六四三)です。豊後国(ぶんごのくに)(大分県)に生まれ、高橋家より立花道雪(たちばなどうせつ)の婿(むこ)養子となりました。妻の誾千代(ぎんちよ)は七歳で家督を継ぎ、現在の福岡市東部にあった立花山(たちばなやま)城主となった、数少ない女城主です。宗茂は武勇に優れ、豊臣秀吉による九州平定では次々と城を攻め落とし、その武功から秀吉より筑後国柳川(ちくごのくにやながわ)(福岡県柳川市付近)八万石を与えられました。文禄の役(一五九二~三)では朝鮮半島での活躍めざましく、慶長の役の最中に秀吉が死去すると、全軍が撤退するために奮戦し、その名を天下にとどろかせました。

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いでは西軍として京極高次(きょうごくたかつぐ)の大津城を攻めますが、高次の命を救おうと降伏を勧め、降参した高次を高野山に送っています。西軍が大敗し、宗茂軍は柳川に戻るも城を攻められ、降伏して領地を失い浪人となります。江戸で蟄居(ちっきょ)生活を送っていた宗茂ですが、本多忠勝(ほんだただかつ)の推挙で徳川秀忠の側に仕え、大坂の陣には徳川勢として参戦しました。元和六年(一六二〇)、旧領の柳川藩約十一万石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し、旧領に復した唯一の大名となりました。寛永十九年(一六四三)、七十六歳で死去。宗茂は生涯に何度も改名しましたが、戒名の「大圓院殿松隠宗茂大居士」には後年の著名な「宗茂」が入っています。

高野山大圓院はかつて多聞院(たもんいん)という名前で、現在の清浄心院付近にありました。立花家菩提寺で、宗茂は天正年間に訪れています。『紀伊続風土記』には文禄五年(一五九六)に親成(ちかなり)(宗茂の当時の名前)は寺門を修理して筑後国一六〇石の領地を寄進し、寛永年中に宗茂が堂宇を整備したことから大圓院に改名した、とあります。大正時代の火災で大圓院は現在の地に移りましたが(表門のみ焼失を逃れて移築、現存)、一の橋のすぐそばには宗茂の大きな供養塔があります。銘文によると甥(おい)で養子の立花忠茂(ただしげ)が建立し、梵字と銘文を書いたのは「新坊宣雄(せんゆう)」です。宣雄阿闍梨(あじゃり)は宗茂が帰依した僧で、古い絵図を見ると新坊というお寺と多聞院が合併して大圓院となったようです。また表門は寛永二年(一六二五)建立とされ、宗茂が造営に関わっている可能性があります。

問合せ:高野山真言宗 総本山 金剛峯寺
【電話】0736-56-2011

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