◆高野山(こうやさん)
紀伊半島、和歌山県の標高約900mの連なる山域のなか、八葉の峰に囲まれた盆地が高野山です。平安時代のはじめ、弘法大師空海によって修禅の道場として開かれ、真言密教の聖地の歴史がはじまりました。日本の魂の安らぎの場所、憩いの場所として今もなお連綿と続いています。
『紀伊国名所図会』では江戸時代の高野山の時候について「山上稍やや凹くぼかにして、かの八葉の峰四方に周(めぐ)り、木立(こだち)いと暗く生(おい)しげり、うき霧濛朧(きりおぼろ)しく満渡りて、晴み曇りみ、四(よつ)のとき定まれる事なし。されば正月二月も冬にかはらず冴わたり、やうやう三月の末、四月のはじまりにいたりて、梅桜(うめさくら)の類、一時に笑(えみ)てとりどり興(きょう)深きが中に、桜は土地に応ずるけにや」と記されています。
訳しますと、山上は盆地であり八葉の峰に囲まれ、木立はとても暗く生い茂り、漂う霧がおぼろげに満ちわたって、晴れたり曇ったり、一日中天気は安定していない。一・二月の冬はずっと冷え込み、だんだんと三月末から四月初めにかけて、梅や桜のたぐいが一斉に咲き、色とりどりの様子が趣深く、その中でも桜は土地に応じた咲き方をする、とのことです。
そして参詣客の賑やかな様子について、「大地漸(ようよ)うに闢(ひら)けて後、堂閣厳(どうかくいかめ)しく、寺門街(じもんち)またをなして、法(のり)の都(みやこ)といふべし。詣(もう)づる人々いつとなき中にも、春はことに賑(にぎ)はしく、夏秋も絶間(たえま)なし」と、仏堂や楼閣の造りが荘厳であり、仏法の都という様相のなか、春は特に賑やかで、夏や秋も詣でる人々は絶え間ない、ということです。これは現代も変わりません。
弘仁7年(816)、空海は高野山を請(こ)うために朝廷に奏上(そうじょう)しました。「吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地(ゆうち)あり、名づけて高野(たかの)という」(『性霊集』)と書かれています。むかし、吉野には山岳修行をする人が集まっていました。空海は山の中を若いころに修行して歩き、その中で高野山を見つけ出したようです。高野山は、自然の中に囲まれた修行にとってふさわしい場所です。盆地であるため水にも恵まれています。
高野山は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な時代がずっと続いたわけではなく火が消えるような時代もありました。藤原道長の参詣で浄土信仰が生まれ復興をし、納骨信仰も生まれました。戦国武将などはアジール(聖域)として高野山に逃げ込むこともあり、その後も高野山は栄枯盛(えいこせいすい)を重ねて現代に至っています。
名所シリーズは今回の100号をもって終了とさせていただきます。長らくありがとうございました。
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