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郷土を知り、郷土を愛する「志木市 歴史さんぽ」-執筆・協力 志木のまち案内人の会-

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埼玉県志木市

■第37回 本町の水車
野火止用水流域の水車は、生活用水として影響が少ない下流域である志木市本町地区から順次開設されました。
江戸時代、本町地区の各水車冥加金(みょうがきん)(負担金)は、かなり高額で玉川上水系の水車の中でも、1~3位を占めていたようです。時代の経過とともに、経営難で休業や譲渡の変遷(せん)などがありました。また、幕末頃になると支流の大塚・柏地区にも水車が開設されていくようになりました。
(1)下の水車(河岸の水車・市場坂上付近):1762年、太兵衛が開設。野火止用水筋で最古。動力は「上掛式」で、現在の6~7馬力に相当。一昼夜で粉12俵、挽き物30俵を挽く。昭和2~3年に廃業。
(2)中の水車(上町バス停付近):1770年、三上平右衛門が開設。製粉と精米を「廻し堀」で操業。関東大震災前に廃業。
(3)上の水車(丸ての水車・昭和新道付近):1776年、勝五郎が開設。挽き物専門「廻し堀」で操業。西川義太郎死後廃業。
(4)出口の水車(村山水車・マルイファミリー志木付近):1843年以前に新座の高橋家が開設。その後、明治10年代に村山家がこれを継ぎ、大正9年頃まで製粉と精米を行うが、後には製粉のみとなる昭和17~18年に廃業。
(5)山崎水車(慶應志木高校テニスコート付近):山崎氏が開設したかは不明。途中、米長商店が継承し操業。東上線開通後、金子氏が「搗(つ)き物」をして引き継ぐ。
(6)古亀(ふるかめ)水車(引又観音音堂付近):明治初年、野島亀吉(古亀)が撚(よ)り糸水車として開設。その後、精米などを手掛けるが、動力を水車から発動機に切り替えて操業。大正末期に廃業。
野火止用水本流は、昭和40年、地下に下水管が埋め込まれ、暗渠(あんきょ)の排水路になってしまい当時の面影はありませんが、用水の痕跡は所々に残っています。
※主な依拠図書:「野火止用水といろは樋」(郷土資料館の会刊)

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