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郷土を知り、郷土を愛する「志木市 歴史さんぽ」-執筆・協力 志木のまち案内人の会-

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埼玉県志木市

■第35回 引又市(三・八市、明治以降は二・七市)
舟運で栄える新河岸川と甲州街道及び日光街道を結ぶ脇往還の奥州街道とが交差する交通の要衝だった「引又」に市ができたのは寛文年間(1661~1673年)の頃といわれています。
この引又市は10年ほど続いたとのことですが、清戸村(現清瀬市)から「引又に市が立っては、清戸の市が成り立たない」との訴えがあり一時中断させられた後、「清戸に行くのは遠くて不便、引又の市の復活を」との訴えが28か村の名主から連名であったことから、認められました。
承応4年(1655年)に野火止用水が開通すると、近隣地域の開発が進み、農業生産力も伸びて、引又河岸による新河岸川舟運の商売に注目情報募集イベント講座健康くらし相談医療連載加え、引又市は、肥料や生活必需品のみでなく、余剰農産物の売買の場としても周辺農村にとってなくてはならない存在となっていったようです。
江戸時代、「三・八」のつく日に引又市は開かれましたが、明治以後は「二・七」の日に変わり、現在も市内で催し物がある時などには「二・七の市」の名称で種苗が売られています。
引又市は、今の本町通りの「市場」の辺りで、中央に野火止用水が流れる道の東側の通りで開かれました。当然、月に6回開かれた引又市の出店者の中からは「定店」を張る者も出てきました。
江戸時代後半から大正期にかけて、引又(明治7年からは志木宿)は商業の町として今日では想像もできないほどに繁栄を極めたといわれています。
廻漕問屋、肥料商、米穀商、呉服商、農機具商、薬舗、酒造、醤油味噌醸造、水車、旅籠屋、料理屋などの豪商を含めた大小のお店が軒を連ねる町並みでした。

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