■第51回 朗慶山立善講寺(ろうけいざんりゅうぜんこうじ)(日蓮宗)
富士道を行き、敷島神社参道に入る角に建つ立善講寺。このお寺は、日蓮宗大本山の池上本門寺(東京都大田区)の寺域にあった照栄院(しょうえいいん)を起源とする南谷檀林(なんごくだんりん)と呼ばれた建物を、元禄2年(1689)に朗慶山立善講寺と号したといわれています。
明治初年に志木の日蓮宗徒は、一心講として田子山富士塚築造にあたり、四合目に南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と髭(ひげ)題目で刻した石碑を建てるなど活発に活動していました。この熱意は、身近な場所に寺院を得たいという思いとなり、境内地や資金の準備をして、池上本門寺に誘致をお願いしたのです。この住民たちの誓願により、明治21年立善講寺が当地へ移転してきました。かつては、500坪あまりの広い境内だったようです。
昭和初期、このお寺を子どもたちはお堂と呼び、庭で「独楽(こま)まわし」「凧(たこ)あげ」「兵隊ごっこ」「運動会ごっこ」といった遊びに熱中したそうです。また当時は、土用の丑(うし)の日に頭痛のまじないとして頭に乗せたほうろく(素焼きの浅い皿型の土器)の上で、もぐさを焼く「ほうろく灸(きゅう)」という行事を行っていました。
詳しいことは不明ですが、明治41年より5年間、志木町の役場として使用されたという歴史もあるそうです。かつては、立派な樹木に囲まれていたようですが、「庭を燃えるような色に染めて咲いていた百日紅(さるすべり)」も数年前の台風で倒れ、その名残が入り口に見えます。明治に移築された本堂は、池上本門寺にあった柱などの部材をそのまま利用した堂々とした造りです。柱と柱をつなぐ中央上部の彫刻は、作者等不明ですが、芸術性の高いものです。
参考文献:「志木市の社寺」「市場回顧録~荒井勝蔵遺文集~」
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