■第41回 稲田八郎
敷島神社の鳥居をくぐり参道に沿って曲がりすぐ右のところに古びた石碑が見え「稲田八郎先生の碑」とあります。『しき郷土かるた』にも「剣術を教えた稲田八郎彰義隊(しょうぎたい)」と歌われるこの人物は、江戸時代末期の天保13年(1842年)江戸の神田に生まれたと伝えられています。幼少から柳剛流(りゅうごうりゅう)という剣術に励み免許皆伝の後も諸国で武術指導を続け、明治維新の際には彰義隊に加わって上野で戦ったという戦績を持つ人です。
一説によれば、戊辰戦争の終結である函館まで奮戦したが傷を負い、流れ流れて片山村(現新座市)にかくまわれていたが明治2年に大赦(たいしゃ)を受け、近所の若者に剣術指南をするようになったとのことです。その頃、志木宿の大地主西川家に強盗が押し入ったのをきっかけに八郎は西川家の警護人として招かれました。その傍ら、志木の若者たちにも剣の手ほどきをしていたところ入門者は日ごとに増え、明治9年には剣道場を開くこととなったのです。道場の開設にあたり、親交のあった山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)(勝海舟とともに幕末の三舟といわれる)が扁額(へんがく)を寄せ、「養気館」と名づけられました。場所は、今の本町3丁目、旧かっぱふれあい館の裏あたりのようです。この道場は、秩父出身で「昭和の剣聖」といわれた高野佐三郎(たかのささぶろう)が開いた浦和明信館の支部でもありました。最盛期には門弟(もんてい)600人あまりを教えた八郎は、「大日本武徳会」(戦前の武道全国組織)の地方委員も務めました。一流剣士の風格を備え剣一筋の生活を送っていましたが、大正2年5月14日に病没(びょうぼつ)しました。恩師の逝去(せいきょ)を惜しみ高弟(こうてい)たちが大正8年、敷島神社に記念碑を建立したのです。
※参考文献:「しきふるさと史話」、「志木市の碑文」、「郷國剣士傳志木町明信館長・稲田八郎空白の時期」
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