■第43回 白井武左衛門
白井武左衛門は江戸時代初期の人物で、当時上・下宗岡の領主であった旗本岡部氏の家臣として仕え、宗岡の大恩人といわれています。この供養塔は、江戸時代後期の文化10年(1813)に建てられました。
宗岡村は新河岸川と荒川に挟まれた低地にあり、度々洪水に見舞われていた一方で、用水の不足にも悩まされていました。白井氏の第一の功績は、新河岸川を跨(また)ぐいろは樋を架け、野火止用水を宗岡の地まで導水したことです。当時、志木(引又)を流れた野火止用水は、そのまま新河岸川に流れ落ちていましたが、対岸の中宗岡を領していた川越城主松平信綱(伊豆守(いずのかみ))の許しを得て事業を進めました。
また、洪水に対しては、上流側の南畑地区との間に佃堤を、下流側からの逆流を防ぐ新田場堤を築き、宗岡は村を囲む総囲堤によって守られることになりました。
野火止用水により生産力は大いに向上し、総囲堤により洪水の恐れが軽減されたことから、村人の白井氏への感謝の念は大変深いものがあります。この供養塔の建立もその一つですが、明治41年に頌徳碑(しょうとくひ)、同43年に治水碑が建立されています。さらに、かつては7月15日(旧暦6月15日)の天王祭に「白井様の祭り」と称して白井氏の功績をたたえる行事が行われていました。
供養塔のある墓地は観音寺の跡で、白井氏が再興したといわれますが、残念ながら明治はじめに廃絶しました。また、供養塔上部の黒い箱型の部分は鉄製で、当時としては大変珍しいものです。下部の銘には、中央に白井武左衛門殿、左右二行に用水開基佃堤新田場堤築作と刻まれています。
□白井武左衛門供養塔
住所:下宗岡2-12-28
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