■第54回「文化十一年の引又宿古絵図」を読み解く
郷土資料館に展示されている「引又宿古絵図」(志木市指定文化財)は、大型の絵図(173cm×68cm)で墨の濃淡により描かれ、道路や水車などには朱色が加えられています。文化11年(1814)に引又町(現志木市本町)の名主であった星野半平(ほしのはんべい)が書き写したものです。古絵図には市場付近を中心に奥州脇往還(おうしゅうわきおうかん)道の両側に立ち並ぶ家並みや野火止用水・いろは樋・水車・社寺などが手に取るように克明に描かれ、約200年余前の市場付近の様子を彷彿(ほうふつ)とさせます。
(1)間断ない家並み:中央に大きな道が描かれ、両側には大小多くの家(東側48軒、西側54軒)が立ち並んでいる景観は、一大商業地の感を呈しています。ほとんどの家には名前が記され、「草分け三苗(さんびょう)」といわれる「三上」「村山」「星野」の名前の家が多く立ち並んでいます。また、名主役を務めていた星野半平家や三上伊太郎(みかみいたろう)家などの家は、一際大きく描かれています。
(2)野火止用水の橋:市場付近の野火止用水は街道の中央を流れ、両側の道路を往来するためにいくつかの橋が架けられており、富士道付近にあった「萬永橋(ばんえいはし)」は最も大型のもので、現在は敷島神社の境内に保管されています。富士道から昭和新道の間の野火止用水は街道西側を流れ、西側の家々の前には家ごとに橋が架けられていました。
(3)高札場(こうさつば)と番屋:野火止用水脇には高札場(現・西川医院付近)や番屋(現朝日屋原薬局付近)が描かれています。高札場は幕府や高崎藩の法度などの触れを掲げる施設であり、番屋(自身番)は町の治安には欠かせないものでした。
(4)田子山塚:古絵図中には「田子山塚」と記載された塚があり、2本の塔婆(とうば)のようなものが立てられており、富士塚築造(明治5年)以前、すでに小高い塚や塔があったことをうかがい知れます。この塔は現在の浅間神社里宮のご神体「逆修の板碑」と推測されます。
郷土資料館に出向き、「引又宿古絵図」の原本を見学してはいかがでしょうか。
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