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歴史散歩 〔第352回〕

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埼玉県毛呂山町

■ぐるっと臥龍山(がりゅうざん)散歩 その(3) ~失われた鐘の行方~
戦国時代末期、関東一円は、小田原城(おだわらじょう)を拠点とする後北条(ごほうじょう)氏の勢力下に置かれていました。
西では豊臣秀吉が天下統一を進めるため、小田原征伐を目論(もくろ)み、後北条氏は、来たる決戦に備え、武器の備蓄のため、寺社から金属の供出を命じました。
当時、茂呂大明神(もろだいみょうじん)、飛来大明神(ひらいだいみょうじん)と称された臥龍山の出雲伊波比神社も天正(てんしょう)16年(1588)、鐘を供出しました。町指定文化財の「小田原北条氏の鐘証文(かねしょうもん)」には、八王子城主・北条氏照(うじてる)が、茂呂大明神に対して、鐘を速やかに供出するよう命じるとともに、太平(たいへい)の世を迎えた際には、鋳造(ちゅうぞう)し直して寄進(きしん)するので、この証文を差し出すようにと伝えています。
結局、後北条氏は秀吉に敗退し、滅亡してしまいました。
江戸時代に入り、神社が鐘の返還を求めていました。神社所蔵の資料によると、子(ね)の年(元和(げんな)10年(1624)※)2月24日、「茂呂の神主(かんぬし)」は、初代川越藩主の酒井忠利(さかいただとし)に対して、以下のことを伝えました。

・鐘は八王子の大法寺(だいほうじ)に留め置かれていたため、返還されなかった。
・返還の要求は、12月2日、5日朝の茂呂大明神のお告げによるものである。
・先の鐘借用の証文も存在している。

結局、供出された鐘は返還されることはありませんでしたが、戦国時代に取り交わした鐘証文の存在を忘れることなく、戦国の世から解放され、毛呂郷の人々に平穏をもたらす象徴として鐘の返還を求めたのかもしれません。

●10月28日(土)から11月5日(日)まで、創建1900年を迎えた出雲伊波比神社所有の指定文化財を歴史民俗資料館で公開します。

※元号に関しては諸説あります。

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