文字サイズ
自治体の皆さまへ

歴史散歩〔第350回〕

37/47

埼玉県毛呂山町

~ぐるっと臥龍山(がりゅうざん)散歩 その(1)
山のこと・石碑のこと~

毛呂山町の中央部に位置する臥龍山は、一見大きな古墳のようにも見えますが、実は地球規模の活動によって形成された珍しい地形で、分離丘陵(きゅうりょう)と呼ばれています。
毛呂山町域の西側は、外秩父(そとちちぶ)山地と呼ばれ、秩父山地外縁の比較的低い山々が連なっています。広く捉えると毛呂山町は、関東山地と関東平野の境目に位置しているといえます。
臥龍山は、断層(だんそう)活動によって外秩父山地本体から切り離されたと考えられており、西側の山々と同じ地質で構成されています。
平地にぽっかりと浮かぶ島のような地形の臥龍山は、現代のように高い建物が無かった太古の人々にとって、神々しい聖域として映っていたのかもしれません。一説によると「毛呂」の地名の由来は、神が宿る場所を表す語の「御諸(みもろ)」で、臥龍山の持つ意味そのものが語源ではないかと言われています。
臥龍山を北側から上ると、傍(かたわ)らに「臥龍山公園之(の)碑(ひ)」があります。書は渋沢栄一によるもので、昭和3年(1928)に建てられました。栄一は何度か毛呂村に足を運んでおり、明治45年(1912)4月、出雲伊波比(いずもいわい)神社のある臥龍山で植樹も行いました。
臥龍山公園は、ツツジの名所としてよく知られていました。昭和8年(1933)、八高線の延伸(えんしん)により毛呂駅が開業した際、駅周辺の観光地として臥龍山公園が挙げられていました。
栄一は、埼玉の模範とすべき人物の一人に「毛呂という所から出た権田直助」を挙げています。権田直助は毛呂本郷に生まれた医師で、後に尊皇攘夷(そんのうじょうい)、倒幕運動に加わり活動しました。明治維新後は、国学者として多くの門人たちを排出しました。臥龍山を登ると、社務所前の大鳥居の脇に、権田直助によって書かれた「出雲伊波比神社」の社号碑(しゃごうひ)があります。明治10年(1877)に建てられたものです。権田直助は、この時すでに大山阿夫利(おおやまあふり)神社(現神奈川県伊勢原市)の神職として毛呂を離れていたので、故郷毛呂の鎮守に思いを寄せて揮毫(きごう)したのでしょう。
境内や臥龍山西側に下りていくと多くの石碑が立っています。臥龍山は身近な山ですが、実は毛呂の歴史の深さを知ることができる大切な場所といえます。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU