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歴史散歩 第366回

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埼玉県毛呂山町

■堂山下遺跡のその後

中世の主要道であった鎌倉街道上道(かみつみち)は、鎌倉時代から室町時代にかけての歴史書や軍記物語に旅人や僧侶たちの往来や軍勢が進んだ道として度々登場します。また、江戸時代に編さんされた地誌『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』には、地域の伝承として伝わった古道(こどう)鎌倉街道や宿(しゅく)の存在が記されており、現在の私たちに鎌倉街道の道筋や中世の宿を考えるヒントを残しています。
鎌倉街道の一部の区間や街道沿いの集落の中には、戦国時代以降も整備が行われ、現在に至った町並みも存在します。しかし、戦国時代から江戸時代の交通網の再編成により、主要道の付け替えや集落が移転されたケースもありました。
鳩山町赤沼地区に伝わる『寛文(かんぶん)五年赤沼村秣場争論裁許絵図(まぐさばそうろんさいきょえず)』(1665年制作)には、現在の大類地区を通る道「八王子道(はちおうじみち)」と道沿いに家々が並ぶ大類村の様子が描かれています。しかし、絵図内の鎌倉街道や堂山下遺跡(どうやましたいせき)があるべき場所に目を向けると、脇に「古鎌倉開道」と記された道を表す赤い線が一筋描かれているのみで、集落については全く描かれていません。
苦林宿の跡とされる堂山下遺跡では、16世紀半ば(1500年代半ば)以降の遺物が全く出土しなくなり、集落が消滅したものと考えられています。
そして、その移転先として推測されているのが、新たに整備された八王子道沿いに設けられた集落です。
鎌倉街道については、埼玉県が明治15年(1882)に編さんした『武蔵国郡村誌(むさしのくにぐんそんし)』にも、大類村、川角の地名として「鎌倉道」の記述が登場し、川角村と大類村の村境の道が鎌倉街道であったことが伝わっています。
また、宿堂山下遺跡の存在については、川越市議会議員を務めた安部立郞(あんべたつろう)が大正2年(1913)にまとめた地誌『入間郡誌』に「宿驛(しゅくえき)の存(そん)せし處(ところ)あり。今草生蟲鳴古(いまくさはえむしなきいにしえ)の面影みるべからざる」という記述が登場しており、宿の存在が伝えられていたことがうかがえます。
平成を迎え、堂山下遺跡で発掘調査が行われたことにより、鎌倉街道沿いの宿跡が再び歴史の注目を集めることになりました。

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