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歴史散歩 第363回

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埼玉県毛呂山町

■毛呂合戦から500年
今からちょうど500年前の大永(だいえい)4年(1524)10月、戦国時代の毛呂山は、たいへんな緊張状態に置かれました。
当時の関東地方は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)、まさに乱世の時代でした。有力武将の勢力を見てみると、元々同族の上杉(うえすぎ)氏から分かれた南関東の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と北関東の山内(やまのうち)上杉氏、そして、相模(さがみ)国小田原(神奈川県小田原市)を拠点に台頭した後北条(ごほうじょう)氏が争いを繰り広げていました。
毛呂郷(もろごう)の領主・毛呂氏も複雑な動きを見せています。永正(えいしょう)元年(1504)9月、扇谷上杉氏・北条早雲(そううん)等の連合軍と山内上杉氏・足利政氏(まさうじ)の連合軍が、立河原(たちがわら)(東京都立川市)で戦いました。毛呂土佐入道幻世(もろとさにゅうどうげんせい)(毛呂顕繁(あきしげ))は、山内上杉方で参戦し、後に戦死者供養のため、48個の念仏鉦(ねんぶつがね)を作りました。そのうちの一つは現存していて、当時を語る貴重な資料になっています。立河原の戦いは、扇谷上杉氏が勝利し、毛呂氏が味方した山内上杉顕定(あきさだ)は、鉢形城(はちがたじょう)に退きました。山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立は、その後も続きますが小田原の北条氏綱(うじつな)は、関東地方を勢力下に治めようと、交通関係の規制等を行いました。
大永4年(1524)1月に、扇谷上杉氏の江戸城を手に入れた氏綱は、同年4月、当麻宿(たいまじゅく)相模原市)に対して、許可なく玉縄(たまなわ)(鎌倉市)・小田原から当麻宿を通って、石戸(いしど)(北本市)・毛呂を往復することを禁止しました。毛呂氏の所領・毛呂郷は、すでに北条氏の勢力下にあったものと考えられますが、北条氏の動きに、山内・扇谷両上杉氏は、連合して対抗します。そして大永4年10月10日、上州(群馬県)の軍勢を率いた山内上杉憲房(のりふさ)と河越城の扇谷上杉朝興(ともおき)の両軍は、「毛呂要害(もろようがい)」を取り囲み攻撃しました。同16日、北条氏綱は毛呂氏の救援に向かうため江戸を出ましたが、途中で和談(わだん)の話があり、勝沼(青梅市)で待機していたところで落着しました。「毛呂城衆(もろじょうしゅう)」は城を引き上げ、翌日すぐに、上州の軍勢が入りました。
毛呂を舞台にしたこの戦さは、毛呂合戦(もろかっせん)と呼ばれますが、河越にも近く、北条氏の北の最前線になった毛呂郷の動きに、両上杉氏は警戒したのでしょう。
毛呂合戦以後、毛呂氏は大永8年(1528)に飛来大明神(ひらいだいみょうじん)の社殿(出雲伊波比神社本殿)の再建を果たすなど、寺社への働きかけを行いました。

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