■毛呂山町合併70周年を迎えて
~合併当時の毛呂山町~
毛呂山町は、はじめに昭和14年(1939)、現在の町西部の山間地にあった山根村と、町中央部にあたる毛呂村が合併して毛呂山町となり、その後、昭和30年(1955)4月1日に旧毛呂山町と川角村が合併して、現在の毛呂山町が誕生しました。昭和30年の合併当時はどのような様子だったのでしょうか。
時代は重化学工業を中心に日本の高度経済成長が始まり、終戦直後には想像もできなかった好景気に見舞われていました。しかし、毛呂山町は依然として田畑が広がる農村地帯で、昭和30年ごろは、宅地面積156ヘクタールに対し、田畑の面積は1069ヘクタールと宅地の6倍もあり、田畑では米・麦・雑穀・さつま芋などを耕作していました。田畑のほかには養蚕(ようさん)も主要産業で、蚕(かいこ)の餌となる桑畑の面積は154ヘクタールと、宅地とほぼ同じぐらいの面積がありました。乗用車はまだ町内で6台、貨物自動車は9台しか所有されていませんでしたが、馬は33頭もおり、耕作や運搬などの貴重な動力となっていました。そのようなのどかな毛呂山町にも昭和36年ごろから団地造成が始まり、東京方面へ向かうサラリーマンのベッドタウンとしてにぎわいはじめます。
昭和38年度から国の農業構造改革の政策により、毛呂山町は養鶏・養豚・養蚕の主産地とされたため、町のあちらこちらで養鶏場や養豚場が見られるようになり、養蚕飼育のための近代化施設も拡充しました。商工業は、合併と同年に毛呂山町商工会が会員200人で設立。工場誘致も行われ、自動車の普及に伴い、道路舗装も始まりました。
新毛呂山町の建設計画書(昭和33年度)には町道の新設と改良、橋(きょう)りょうの改良、電話の整備、小中学校の整備、公民館・社会福祉施設・水道など近代社会に対応する整備等、毛呂山町がこれから歩む都市化への基盤となる計画が掲げられ、進められました。
新しい毛呂山町は、にぎやかな町場と周辺の自然豊かな農山村が共存する町としてスタートしたのです。
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