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新春鼎談(ていだん)2025 新紙幣肖像の3偉人 3人の精神を次世代へつなぐ(2)

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埼玉県深谷市

◆栄一翁と2人の偉人の交流
小島市長:同じ時代を生きた偉人の3人ですが、津田先生、北里先生は栄一翁とどのような関わりがあったのでしょうか。

浅利理事長:北里先生は医学の面から、渋沢先生は経済の面から日本を良くしようと考えていました。北里先生はドイツで学んできて、日本で初めて結核療養所をつくり、福澤諭吉先生が支援した。当時、日本では結核が一番怖い病気でしたので、渋沢先生も支援をされて、その結果、日本結核予防協会を北里先生と共に創立しました。今日、深谷に来て分かった共通点は、津田先生もそうだと思いますが、『若いうちから学問を学んで、親の教育がしっかりしていた』ということですね。

髙橋学長:津田塾大学の10周年記念式典で渋沢翁は、『明治維新により江戸時代の身分制度が廃止されて、商工業者が地位を高めたのと同じように、女性もその責任を果たし、業績を向上していって名誉を獲得できれば、地位を上げることができるのだ』というような話をされています。

小島市長:女学生たちの前でそのような話をしたわけですね。

髙橋学長:『商工業者が自ら卑下(ひげ)してはならない。私ごとき者も皆さまの前で演説するようになった。だから、商工業者がその地位を高めたのと同様に、女性の地位も上がっていく』と、自分自身を引き合いに出して述べているんですよね。そのような話を学生の前でしているというのが、非常に印象的です。

◆偉人たちの素顔
小島市長:今日、お二人に見ていただいた旧渋沢邸『中の家なかんち)』で、3月には将棋の『王将戦』が行われます。栄一翁は将棋が好きで、福澤諭吉先生とも将棋を指したというエピソードがあります。もっとも、指す時間が取れないため、心を制してやめてしまったそうです。北里先生や津田先生は、普段どのようなかただったのでしょうか。

浅利理事長:人間性が表れているものとしては、『雷おやじ』とでもいいますか、弟子を叱るときは結構激しかったそうです。部屋に呼ばれた弟子が、叱られて1歩ずつ下がっても、それを追いかけて叱りつけたというエピソードが残っています。でも、それと同時に、その裏にとても深い、弟子に対する愛情を持っていたんですね。失敗した弟子を叱っても、外に対してはすべてを自分の責任としていました。失敗した本人たちを表に出さないんですね。だから、弟子はみんな慕(した)っていました。

小島市長:私がいつも思うのは、栄一翁が1人で500もの会社をつくれる訳はなくて、それは、いろんな人との出会いや関わりがあったということなんですよね。北里先生の場合もまさにそうで、多くの人に慕われていたということですよね。

髙橋学長:津田梅子も学生には大変厳しかったそうですが、学生たちが卒業して、教員になっていった所を日本地図に印をつけて、卒業生が全国で活躍する様子を楽しみに見ていたそうです。また、アメリカのホストマザーは、『津田梅子はいったん言い出したら聞かないところがあるので手に負えない』というような言葉を残しています。

小島市長:栄一翁もそうですが、お二人のエピソードからも、強い意志と信念のある人柄がうかがえますね。

浅利理事長:普段は厳しい北里先生ですが、元日に研究所の人たちみんなを集めてお酒を飲んだときに、頬を赤くしながら、数の子を食べていたという記録が残っています。

小島市長:お酒も飲まれたんですね。津田先生のお正月はどうだったのでしょうか。

髙橋学長:津田梅子は17歳で帰国後、アメリカのホストマザーに宛てた手紙に、日本ではお正月にお年玉をたくさんあげなければいけないと書いています。しかし、帰国直後で仕事を得られていなかったので、お年玉を用意するために、何か記事を書いて送るから原稿料を送ってくれないかというやりとりもありました。

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