■父の市郎右衛門は教育熱心
このコーナーのタイトルである『青淵遺薫(せいえんいくん)』は、雅号(がごう)『青淵』こと渋沢栄一が、父の市郎右衛門(いちろうえもん)の遺墨集(いぼくしゅう)に『晩香遺薫(ばんこういくん)』と名付けたことに由来します。
『晩香』とは、市郎右衛門の雅号で、書道や俳句をしたためた際に使用した名前です。『遺薫』とは残り香(が)の意味で、父の面影を多くの人に伝えたいという気持ちが伝わります。
『晩香遺薫』には、子どもに勉強を教えるために自ら書いて手本とした手習(てなら)いや、自作の俳句が数多く掲載されています。市郎右衛門は教育に熱心で、跡継ぎと考えていた栄一には『司馬温公家訓及朱子家訓(しばおんこうかくんおよびしゅしかくん)』や『商売往来(しょうばいおうらい)』などの文章を書き写し、文字を教えました。同様に、栄一の姉の『なか』、妹の『てい』のために『教諭書(きょうゆしょ)』や『女消息往来(おんなしょうそくおうらい)』、『大和往来(やまとおうらい)』の文章を書いた手本を作り、女子にも教育の機会を与えていました。また、若い頃から書道や文学を学び、特に俳句は、弘化(こうか)3年『新選俳諧三十六句僊(しんせんはいかいさんじゅうろっくせん)』の巻頭に『晩香舎烏雄(ばんこうしゃうゆう)』の俳号で紹介されるほどの腕前でした。
市郎右衛門は渋沢一族の中でも『東の家(ひがしんち)』に生まれ、『中の家(なかんち)』に婿(むこ)入りしてからは、農家として麦や藍葉(あいば)、藍染の染料のもととなる藍玉(あいだま)の製造を研究し、良質な商品を広く販売し、家を豊かにしました。
人のために尽くし、誠実で、質素倹約(しっそけんやく)を旨(むね)として家業を盛り立てた市郎右衛門は明治4年に63歳で亡くなりました。戒名(かいみょう)は『晩香院藍田青於居士(ばんこういんらんでんせいおこじ)』で、『藍田(らんでん)は家を興(おこ)す』を体現した市郎右衛門の面影が、戒名からも伝わってきます。
このコラム『青淵遺薫』も、栄一の面影が皆さんに伝わるように書き進めていきたいと思います。
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