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シリーズ白岡遺産3『白岡遺産ストーリー2』

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埼玉県白岡市

■二つの川筋を背景に勢力を伸ばした鬼窪(おにくぼ)氏

利根川筋と荒川筋の最接近点で、両水系の水運の便がよく、鉄生産の拠点でもあった篠津に目をつけ、古代末から中世初頭に野与党(のよとう)鬼窪氏が土着します。鬼窪氏は篠津を拠点に白岡支台全域を勢力下に治めます。
現在の篠津観音堂から篠津小学校前を通り寺塚へ抜ける道は「のよみち」と呼ばれています。人々の生活の中にいまも野与党が生きている証拠です。康治元年(1142)の草創と伝えられる篠津久伊豆神社のすぐ南側には、複雑に堀の巡る館跡が存在し、鬼窪氏との関係が想像されます。
篠津から白岡、小久喜、実ケ谷にかけては「鬼窪郷」と呼ばれ、中世起源の寺社や館跡が展開します。これらの多くは、鬼窪氏ゆかりのものと思われ、特に、入耕地(いりごうち)館跡は、観応(かんのう)2年(1352)に起こった「観応の擾乱(じょうらん)」に際して鬼窪氏らが挙兵した場所と推定されます。
寿楽院の前から西に延びる古道は鎌倉街道と呼ばれています。篠津の台地を縦貫する道を合わせて元荒川沿いを南下し伊奈へ抜けます。この道は「鎌倉街道羽根倉道(はねくらみち)」と呼ばれる道筋へ通じます。観応の擾乱の折、挙兵した鬼窪氏らは、この道を進軍したのでしょう。
篠津から、白岡・小久喜・実ケ谷と連なる大宮台地の白岡支台は、荒川水系と利根川水系とを隔てる要衝に位置し、鬼窪氏の勢力拡大の基盤となりました。14世紀後半、鬼窪氏が鎌倉府の中で関東管領(かんとうかんれい)上杉家と密接な関係を持ち重要な立場を占めることができたのも、安定した勢力基盤があったからに他ならないでしょう。
※地図・写真は本紙P.24をご覧ください。

《主な関連文化財群》
篠津久伊豆神社、青雲寺、中妻遺跡、興善寺、興善寺中世石造物群(市指定)、木造達磨大師像(興善寺・市指定)、神山遺跡出土金銅仏、白岡八幡宮、鬼窪八幡宮鰐口(白岡八幡宮・市指定)、正福院、入耕地館跡、鬼窪尾張繁政館跡、寿楽院、実ケ谷久伊豆神社、鬼久保家文書(市指定)、伝鎌倉街道、元荒川、日川、星川

問合せ:生涯学習課文化財保護担当
内線522

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