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語り継ぐ空襲の記憶~蕨のまちに降り注いだ焼夷弾~

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埼玉県蕨市

終戦から78年が経ち、戦争を直接知る世代は少なくなっていますが、あの悲劇を風化させてはいけません。今月は、蕨を襲った空襲について紹介しながら、あらためて平和の尊さについて考えてみたいと思います。

■県下で2番目の被害
蕨は戦争末期の昭和20年4月から5月にかけて、3回にわたり空襲に見舞われました。県内では熊谷に次いで2番目に大きな被害があり、被害の合計は死者50人、家屋の焼失や全壊、半壊など約400戸に上りました。当時、日本車輌蕨工場をはじめとする軍需工場が幾つかあり、それらの工場が空襲の標的にされたことが、これだけの被害を出した理由の一つとして挙げられています。

■蕨のまち焼いた空襲
1回目の空襲は4月12日の正午頃。東京が空襲に襲われ、朝から空襲警報が鳴り響く中、戦闘機8機が蕨の上空を北に向かって飛んできました。そして法華田(ほっけだ)(錦町5・6丁目付近)から浦和(うらわ)の辻(つじ)にかけて、16個の1トン爆弾が投下されました。爆弾が落ちた瞬間、家や地面などが吹き飛び、あとには直径20~30メートル、深さ7~8メートルものすり鉢状の大きな穴があいたと言われています。この爆弾による死者は36人、全壊した家屋は16戸に上りました。
2回目の空襲は4月13日の夜から14日の朝にかけて行われ、13日の午後8時過ぎに郷(ごう)地区(錦町4丁目付近)にあった羊毛工場や民家に焼夷弾(しょういだん)が落とされました。その後、深夜から14日の朝にかけて、10機ほどのB29による爆弾と焼夷弾の波状攻撃が行われ、三和(みつわ)町(南町2・3丁目付近)から下蕨(しもわらび)、土橋(つちばし)、御殿(ごてん)、仲上(なかがみ)町を経て蕨第一国民学校(現在の北小学校)までの約1キロメートル、幅200~300メートルの広範囲が火の海に。このときの被害は死者12人、全壊または半壊した家屋は約360戸に上りました。
3回目の空襲は5月25日午後10時頃に西の空から来襲し、郷地区の現在の大日本印刷工場付近の民家3戸が焼失。付近の人たちの必死の防火により延焼は免れたものの、2人の犠牲者を出しました。

■平和の尊さを考える
昭和20年8月15日。長く続いた悲惨な戦争は終結しましたが、空襲によって蕨で罹(り)災した人や家屋の割合は7%にも及びました。それから78年。日本では戦争のない日々が続いています。しかし、昨年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻など、世界から戦争がなくなったわけではありません。家族や友人など、全てを奪う戦争はあってはなりません。現在、蕨市民の約9割が戦後生まれですが、私たち一人ひとりが戦争による惨事を忘れることなく、蕨市平和都市宣言に示した平和への思いを心に刻み、次の世代へと引き継いでいきましょう。

市内の公民館等では、平和に関する催しを開催しています(お知らせ版10ページ)。ぜひ、ご参加ください。

■平和都市宣言
昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。
その間、唯―の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。
しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。
このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。
私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。
蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。
昭和60年9月9日 蕨市

■忘れられない空襲のこと
加治(かじ)ヒサ子こさん 北町1丁目・83歳
私は当時5歳で、中央の土橋に父と母と3人で暮らしていました。家の近くに大きな防空壕があり、近所の人たちといっしょに避難して過ごしていました。空襲があった時期は、毎日、戦闘機が飛ぶ音が響き渡り、怖かったことを覚えています。
空襲当日のことは今でも思い出せます。東京の方から来たB29が爆弾を落としていったのです。防空壕の中から爆弾が落ち、火が広がるのが見えました。私の自宅は織物工場の近くにあり、この空襲で燃えてしまいました。両親から、その様子をよく見ておきなさいと言われましたが、大きな火が怖くて見ることができませんでした。
その後は、知り合いの家を転々としました。しかし、みんな自分のことだけでもたいへんでしたので、最終的には父が働いていた工場の寄宿舎に住むことになりました。あれから日本は平和な時代となりましたが、戦争はとても怖いものです。戦争なんて体験しないのがいちばんですから、これからも平和が続くことを願っています。

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