文字サイズ
自治体の皆さまへ

行田歴史系譜355

15/27

埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史55
▽新たな殿様・松平忠堯(ただたか)から領国へのメッセージ〜農民教諭書『教諭三章(きょうゆさんしょう)』の読み聞かせ〜
文政6年(1823)末、忍入封(にゅうほう)を果たした松平忠堯とその家臣団は忍城周辺の新領国の統治に向けて動き出します。城郭の受け取りと同様に、領内村々の概況や統治に関する記録・引き継ぎ書類は、幕府役人を介して前忍藩主の阿部家から受け渡されます。しかし、その後の統治方針の決定は新藩主の専権事項でしたので、そこに松平家の独自性が現れていきます。
その鏑矢(かぶらや)ともいえるのが、領民に対して発布された『教諭三章』です。この書物は農民が生活の中で心掛けるべき事柄を、(1)父母家族への孝行、(2)家業に励むこと、(3)法度(はっと)を守ること、以上の三章を通じて教え諭す内容で、本来は桑名藩時代の明君(めいくん)・松平忠和(ただとも)が考案したものでした。忠和の実家は紀州徳川家であり、同家当主から8代将軍となった徳川吉宗(よしむね)時代に成立した『農民教訓条々』の影響を多分に受けた書物でもあります。
書物の成立から年月を経た忍・桑名・白河の三方領知替の翌年2〜3月、松平家の郡奉行(こおりぶぎょう)・代官は忍藩領の村々を訪れ、割役名主(わりやくなぬし)や各村の名主を集めて、『教諭三章』を声に出して読み聞かせています。同書を御家(おいえ)に伝わる教諭書として国替後も再活用したのです。また、松平家が徳川家康の系譜を引くことを強調する『神君御教訓一章(しんくんごきょうくんいっしょう)』という書物も合わせて流布させていきました。
このように、国替えの直後、模範的な農民生活の指針とともに、神君家康から血統・松平姓・三葉葵紋(みつばあおいもん)を受け継ぐ松平下総守(しもうさのかみ)家の由緒が領民たちのもとへ届けられることになったのです。184年間の長きにわたり続いた阿部家時代に替わり、松平下総守家が新たな忍藩主として領民に受け入れられるための、強いメッセージを必要としていた当時の状況が伝わってきます。(郷土博物館 澤村怜薫)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU