■資料がかたる行田の歴史57
▽忍から白河へ〜「白川御家中様方御相対御荷物仕切帳」
文政6年(1823年)の三方領知替では、忍に暮らしていた阿部家の家臣たちも家財を整えて陸奥国白河へ引っ越して行かねばなりませんでした。この資料は、白河へ移る阿部家家臣たちの荷物輸送について、久保田河岸(現在の茨城県結城市)の宮田権兵衛から酒巻河岸(行田市酒巻)の正田今平へ宛てた明細書です。
忍から白河への輸送は、河川と陸路を使いました。白河藩・会津藩などの東北諸藩が江戸へ米を輸送するルートをさかのぼったと考えられます。まず、酒巻河岸から利根川を下った後、境河岸(現在の茨城県境町)で一度陸揚げし、久保田河岸までは陸路を行く、またはそのまま利根川を下り、鬼怒川との合流地点から遡上するコースがあります。いずれにしろ鬼怒川の久保田河岸を経由し、川を上って阿久津河岸(現在の栃木県さくら市)へ。そこで陸揚げして原街道(白河〜氏家宿阿久津河岸)を通り白河に至ります。複数の河岸を継いでの輸送になるので、忍藩御用酒巻河岸の正田今平が輸送を請け、途中からは久保田河岸の宮田権兵衛に仕切りを任せ、船賃を明細にまとめて請求してもらったようです。当時の舟運の船賃は、御用荷物を扱った御おさだめ定賃銭と民間相場である相対(あいたい)賃銭がありましたが、阿部家家臣の荷は相対賃銭を用いた相対荷物として扱われました。
忍から白河まで、約160キロメートルの道のりです。天候によっては、引舟で川をさかのぼる苦労も相当のものだったでしょう。藩士たちも、家財の運搬には気を揉んだことと思われます。
(郷土博物館 浅見貴子)
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