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行田歴史系譜352

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埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史52
▽俳人の奇北も詠んだ帯曲輪(おびぐるわ)
江戸時代の忍城は沼地の中にあり、その地形を生かした堀と、曲輪(くるわ)と呼ばれる島状の土地が城郭を形作っていました。今回は数ある曲輪の中から、帯曲輪について紹介します。
帯曲輪は、城の中心から見て北(現在の忍一丁目辺り)に位置していました。東西に細長く、ややカーブした形をしており、現在の地形にもその名残が見られます。造られたのは元禄14〜15年(1701〜1702)、忍城主阿部家による忍城大改修の時です。それまで広い堀で隔てられていた北谷町と馬場曲輪をつなぐ通路として新設されました。これにより、城の東西を行き来する際に南側を大回りする必要がなくなり、交通の便が非常に良くなったそうです。また、当時は忍城の堀に北から忍川が注いでいたのですが、帯曲輪が造られたのはちょうど水流の入り口でした。堀に直接流れ込んでいた水が、帯曲輪に一度ぶつかることで緩やかになり、堀の中に点在する小島が削れてしまうことを防ぐ効果もあったようです。帯曲輪は通路としての役割が大きく、幕末期まで屋敷や役所といった建物は建てられませんでした。幕末の文久2年(1862)に参勤交代が緩和され、武士たちが江戸から国元へ住処を移し始めると、城は少しずつ姿を変えていきました。帯曲輪は通路から宅地に変わり、後にはその様子から「百軒長屋」と呼ばれるほど、長屋がぎっしりと立ち並ぶ場所になりました。
明治時代以降の帯曲輪については、須加村(現在の須加地区)出身の俳人・川島奇北(1866〜1947)が次のような句を詠んでいます。(「郭」は「曲輪」と同じ意味)
帯郭に沿うて拓ける春田かな
句集『田園』春の巻に収録されているこの句は、帯曲輪の周囲に開かれた田んぼの様子を詠んだものです。曲輪を囲んでいた堀を干拓し、新たに田んぼを開いたのでしょうか。現在、帯曲輪の跡地に当たる場所に田んぼはなく、現代的な住宅地が広がっています。奇北の句は、時代とともに変化してきた帯曲輪の風景を切り取り、今に伝えてくれる貴重な言葉でもあります。
(郷土博物館岡本夏実)

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