文字サイズ
自治体の皆さまへ

行田歴史系譜353

25/26

埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史53
▽小川一眞(かずまさ)と内国勧業博覧会
本市出身の写真師小川一眞は明治・大正期の写真や出版、印刷の分野で数多くの業績を残し、写真師で唯一帝室技芸員に任命されるなど、日本の写真界の頂点を極めました。写真師としてのキャリアは明治8年(1875)、16歳のとき熊谷の写真師吉原秀雄のもとで働いたことに始まりますが、早くも2年後には群馬県富岡町(現・富岡市)に自身の写真館を開業しました。
当時の富岡町は、明治5年(1872)に官営富岡製糸場が開業したことにより、活況を呈していました。一眞はそこに目をつけて富岡に進出したと考えられます。写真館の場所も製糸場の正門を出て100メートルほどいったところの路地を右に曲がった先にありました。
さて、写真界の中で名声をあげることを望んでいた一眞は、明治14年(1881)3月に東京上野公園で開催される第2回内国勧業博覧会に写真を出品することとしました。題材に選んだのは群馬県の妙義山です。大変な苦労をして妙義山の撮影、現像、焼付を行い、額装して博覧会事務局へ写真を送りました。この資料は一眞が兄の原田清太郎に送った手紙で、撮影の経緯などが記されています。一眞にとってはかなりの自信作だったようで、この景色は誰も撮影したことはなく、私の努力で大変素晴らしい写真に仕上がったと述べています。
しかし、結果は一眞の思う通りにはいきませんでした。博覧会は品目ごとに表彰がなされ、出品した写真師38人のうち受賞者は有効賞牌一等1人、二等2人、三等2人、褒状9人の14人で、一眞は選外となりました。博覧会の報告書に書かれた講評も、受賞者にならなかったため、個人の評価は記されず、他の出品者とともに「その他なお各地の風景を写す者数多あれども五、六葉に止まる」という記載があるのみでした。
この結果は一眞にとって写真界での立場を認識させることとなりました。これから写真師として世に出ていくためには、他に抜きんでた経験と実績を積む必要を痛感させたのでしょう。このことが年内に富岡の写真館をたたんで、翌年にはアメリカへ留学することにつながっていくのです。
(郷土博物館 鈴木紀三雄)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU