■資料がかたる行田の歴史67
▽小栗正勝(おぐり まさかつ)と正覚寺(しょうかくじ)〜想いの込められた梵鐘(ぼんしょう)〜
戦国から江戸時代に移り変わるころ、忍城番と代官を務めた小栗正勝の墓所は市内城西の正覚寺にあります。
小栗正勝は、慶長年間より鉄炮同心20人を預けられ、徳川氏直轄の城となった忍城の城番与力を命じられた人物です。その後、代官頭(だいかんかしら)の伊奈忠次(いなただつぐ)配下の忍領代官として城郭周辺地域の民政に携わり、特に徳川将軍家の御鷹場の管理を天野忠重(あまのただしげ)とともに担いました。
彼の知行地は幡羅郡三ヶ尻(みかじり)村・折之口(おりのくち)村など行田市外に計550石ありましたが、菩提寺は正覚寺としました。これは日常的に忍城内で生活・勤務していたことが影響しており、城郭に近接する寺院を菩提寺として選択したものです。
正覚寺は戦国期の忍城主成田氏長が開基した浄土宗寺院であり、境内には小栗家の初代正勝、三代正久、四代正豊と一族のものとみられる墓石が伝わります。中でも、方形の塔身・笠・屋頂(おくちょう)に相輪(そうりん)を載せた宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる墓石は初代正勝のものと考えられます。
正覚寺の梵鐘もまた小栗家と関わりが深いものです。梵鐘の表面には小栗家一族17名の法名に加え「鋳造大檀那 小栗孫助正豊 武州埼玉郡忍持田村 大雄山正覚寺什物 当寺九世然蓮社廊誉上人大和尚 元禄二己巳年三月八日」と銘文が刻まれており、元禄2(1689)年3月に小栗正豊が大檀那として寄進(きしん)した梵鐘であることが分かります。
小栗家は、忍・鴻巣の御鷹場を長年管理してきましたが、天和3(1683)年に五代将軍徳川綱吉の意向で鷹場制度が縮小されると、彼の役割も免じられ、江戸に移り住むことになります。梵鐘は、四代にわたり慣れ親しんだ地域を離れなければならない状況の中で、祖先の菩提供養を祈念して小栗家から正覚寺へ寄進されたものでした。
(郷土博物館 澤村怜薫)
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