■資料がかたる行田の歴史69
▽行田足袋商による頼母子講(たのもしこう)
頼母子講とは、金銭の融通を目的とした民間の互助組織です。一定の期日ごとに講の構成員があらかじめ定めた講の掛け金を出し、所定の金額の取得者を抽選や入れ札で決めました。原則全員が取得し終わるまで続けるものです。
写真の史料は、天保14(1843)年に高砂屋十助が発起人となった頼母子講に参加した田島屋吉右衛門が落鬮(らくくじ)し、153両を受け取ったことの証文です。頼母子講には支払いなどに関する講員による取り決めがありますが、本文中にも「御連中御定(ごれんちゅうおさだめ)」という文言があります。これに従って、吉右衛門は金を受け取った以降も毎回掛け戻しとして10両を支払う義務がありました。証文の表題が「預り申(もうす)金子(きんす)證文之事(しょうもんのこと)」となっているのもこのためです。一回の掛け金も最低でもこの額だったと思われます。会の開催の頻度は分かりませんが、掛け金が10両でもらえる額が153両なら最低でも15〜16回は掛け続ける必要がありました。
また、落鬮者とともに保証人である柏屋金六と亀屋長右衛門が署名押印しています。彼らは吉右衛門が頼母子講を続けることができず、掛け金の支払いが不可能となった場合には、代わりに支払いの義務がありました。
世話人の高砂屋金右衛門は足袋商の秋山金右衛門です。頼母子講の発会の理由はさまざまですが、配当金が153両であり、最低10両の額を掛け続けることができるのですから、参加者は行田町や周辺の村の富裕層となります。その中で高砂屋金右衛門が世話人になっていることから、同家が行田町において経済的地位が高かったことや、その背景には町の主要産業であり、同家も営んでいた足袋産業による利潤があると考えられます。足袋屋は当時の行田町の金融にも深く関わっていたのです。
(郷土博物館 鈴木紀三雄)
※写真は本紙をご覧ください。
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