■資料がかたる行田の歴史65
▽壬申(じんしん)地券と改正地券
明治維新で近代化を進める新政府は、税制と土地制度の改革に着手しました。目指したのは、税の金納と土地の所有権を明確にすることでした。明治4(1871)年、田畑永代売買禁止令が廃止されました。これまでも実質的に、借金の抵当となった土地が質流れしてしまうなどすでに形骸化していたのですが、ここで形式上も撤回され土地の所有権の移動が自由化されました。そして、土地に関するさまざまな情報を記載した地券を発行することとしました。このときの地券は、作成を命じた明治5(1872)年の干支をとって壬申地券と呼ばれています。
地券には土地の一筆ごとの地番、地目、面積、所有者、地価が記されています。埼玉県でも明治5年7月に全国の土地所有者全てに地券を発行するという大蔵省の布達を管内に流布し調査に取り掛かりましたが、作業はなかなか進まなかったようです。面積も実際に測量したわけではなく申告に基づき、地価も売買価格を参考にするなど、実情と離れたところもありました。それでも調査は、翌年5月にはほぼ終了し、地券の発行が行われました。写真は、下池守村の棚沢家に伝来した壬申地券です。下池守村では、村民42人に対して623通の壬申地券が発行されました。
明治6(1873)年7月、政府は抜本的な土地制度改革を行うため、地租改正法を公布しました。その内容は、土地の調査、測量を行った上で、一定の算定方式により新しく地価を算定し、土地の所有者には地券を発行すること、土地所有者から地価の100分の3の地租を金納で徴収することなどです。埼玉県で改正作業が本格化したのは、明治8(1875)年に入ってからです。地押(じおし)丈量(じょうりょう)と呼ばれる土地の測量が行われ、土地一筆ごとの地価が決められて、明治12(1879)年に改めて地券が発行されました。このときの地券を改正地券といいます。この改正事業により、地租に基づく課税が行われることになりました。
(郷土博物館 鈴木紀三雄)
※写真は本紙をご覧ください。
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