■厚生省時代のエピソード
市長:その後熊谷高校、東京大学法学部への進学、そして、当時の厚生省に入省されました。その頃の思い出などはいかがでしょうか。
また、厚生省では、介護保険制度の創設にも大変ご尽力されたと伺っています。当時いろいろ議論もあったと思いますが、ご高齢の方が安心して暮らせるのは介護保険制度があるからだと実感しています。この介護保険制度の創設のきっかけは何かあったのでしょうか。
江利川:大学生だった昭和40年代前半は高度経済成長時代で、一方で公害問題が深刻になっていました。公害問題に取り組もうと思い、公害部のある厚生省に入りました。幸い、公害担当部局に配属され、本邦初の産業廃棄物の規制を担当することになりました。初めての規制ですから、事業所管官庁は緩い規制を望みます。規制基準を巡って何カ月も交渉が続きました。議論を重ねて、それなりに厳しい基準を設定できたと思っています。この過程でいろいろな省庁の人たちと信頼関係ができ、いい経験をしました。
私は、公害問題が深刻になったのは、規制官庁である厚生省の対応が不十分だったからではないかと思っていました。入省して、厚生省の人たちも頑張っていることを知りましたが、まだ不十分。私は「後輩の存在意義は先輩を乗り越えることにある」と自分を叱咤(しった)激励して頑張りました。この思いは、国家公務員を辞めるまで、ずっと持ち続けてきました。私の姿勢の背骨のようなものです。
介護保険制度ですが、介護保険制度ができる前は、利用できる施設は福祉施設である老人ホームに入所するか、病院に入院するしかありませんでした。福祉施設は措置制度で低所得者しか入れませんし、病気でなければ入院できません。要介護や認知症の高齢者を抱える一般の家庭は大変で、悲惨な事件もたくさんありました。
当時から将来の急速な高齢化が見込まれていたので、厚生省は省内にプロジェクトチームを作って検討を進めていました。私は当時他の制度改正などに携わっていました。
検討が進んで、介護保険法案を国会に提出するころ、厚生省で大きな不祥事が起こり、担当者が離職することになりました。そこで、急遽(きょ)、私が高齢者介護対策本部事務局長に任命され、小泉厚生大臣の下で、介護保険法案の国会審議を担当することになりました。当時は、医療関係者も福祉関係者も斜に構えている感じがあって、与党も野党も必ずしも積極的ではありませんでした。国会で議論を尽くし、1年以上の審議を経て、なんとか成立に持ち込みました。
私は、介護保険制度の必要性を信じて疑いませんでした。今日の超高齢化時代には不可欠の制度です。長寿化は年々進んでいますので、介護保険制度が安定的に運営できるよう、適切な利用・運用に全ての人が心して欲しいと思います。
■首相官邸での勤務
市長:江利川さんは二度総理官邸で勤務していますね。一度目は中曽根内閣のときでした。
江利川:入省の動機からすると、総理官邸勤務は青天の霹靂(へきれき)でしたが、いい経験をさせていただきました。課長になりたての38歳のときの人事異動で、中曽根内閣の国鉄民営化や売上税の導入などの大きな課題がある中で仕事をしました。売上税は中曽根内閣では実現できませんでしたが、竹下内閣の時に消費税が実現しました。二度目はそれから約10年後で、橋本総理、小渕総理、森総理の時代です。中央省庁再編が大きな課題になっていて、2001年1月、森内閣の時に実施されました。私は厚生労働省に戻らず、再編の目玉である新設の内閣府の大臣官房長に発令されました。
市長:官邸勤務だと政治家、それも実力派というか、大物の政治家と日々やりとりがあるのでしょうか。
江利川:必ずしも日々ということではありませんが、施政方針演説や重要行事などは十分打ち合わせをします。当時官邸は非常に少ない組織体制でしたが、政策の中枢にいるため、緊張感の強い毎日でした。3年間務めた二度目の首席内閣参事官のときは土日の半分は出勤していましたし、新年を官邸で迎えたこともあります。夏休みなどの休暇を取ったのはたった1日だけでした。
また、首席内閣参事官であった私の大きな役割の一つに、総理が代わる際の次の内閣への橋渡しがあります。次の総理や官房長官と初閣議の段取り、総理談話、内閣の基本方針を決めるなど、緊張した打ち合わせが続きます。小渕総理が急遽入院され、最後は病院で亡くなられましたが、あのときの緊張感は特別なものがありました。
市長:2回目の官邸勤務では総理大臣と間近に接することで、ダイナミックな政治の変化を体感されたのですね。
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