■資料がかたる行田の歴史71
▽忍城下に奇妙な水堀ができた訳〜鴨堀(かもぼり)の誕生〜
嘉永年間(1848〜1854年)の忍城を描いた絵図には、南側の沼に奇妙な水堀が見られます。今回はこの水堀が何のために造られたのか紹介します。
まず、絵図の描写を見てみましょう。沼には「鳥溜(とりだまり)」の文字、沼の南側に放射状にみられる7本の細い水堀、その場を囲む土塁沿いの西側に設けられた区画に「御鴨所(おかもどころ)御休息(ごきゅうそく)」の文字があります。これらの特徴は、おとりのアヒルやカモを使って引堀(ひきぼり)に野生のカモを誘い入れ、物音に驚いて引堀から野生のカモが逃げ立つ時に捕らえるための「鴨堀」の要件と合致するもので、忍城下の水堀は鴨堀であったことが分かります。
それでは、なぜ鴨堀がこの頃の忍城に造られたのでしょうか。明治3(1870)年に鴨場跡地を開発した際の史料によると、この場所は、忍藩主松平忠堯(ただたか)が江戸城内の詰所(つめしょ)のうち溜詰(たまりづめ)に列席を果たしたことを受けて、天保4(1833)年4月に鷹場になった土地であったといいます。溜詰の大名は参勤交代で国元に赴く際、徳川将軍からタカを下賜(かし)されることを許されており、大名はそのタカで捕らえた獲物をまた将軍へ献上することを慣例としていました。そのためのガンやカモを捕らえるための鷹場として、忍城下に鴨堀が造られたのです。
大名の鷹狩りは、当主の初めての国入りの際に多くが領内巡見と合わせて広い範囲で実施されました。しかし、忍城下に造られた鴨堀は、将軍から下賜されたタカでガンやカモを捕らえるという明確な目的の下、狭い範囲に造られた特殊な鷹場であったということができます。
同様の構造を持った鴨堀には、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に造営された新銭座(しんせんざ)鴨場や、宮内庁の埼玉鴨場(越谷市)などが現存しています。
※絵図は本紙をご覧ください。
(郷土博物館 澤村怜薫)
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