■第三十六回 浜野定四郎
浜野定四郎(はまのさだしろう)は弘化2年、現在の北部小学校のあたりで生まれました。父・覚蔵は漢学洋学とも優れた人物で、数学を得意としたことから中津洋式砲術の開祖と言われた人物でした。幼い頃から優秀で、元治元年に小幡篤次郎らとともに上京し、福澤諭吉の塾に入学しました。父の才を受け継いだ定四郎も数学が得意で、慶應義塾では会計業務で活躍しました。福澤は理化学や英書の訳読にも優れた定四郎を頼りにし、「標高の高いところでは沸騰する温度は何度になるのか?」といった疑問を書簡で送ることもありました。中津市学校が開校されると市学校の校長を務めました。福澤に慶應義塾に呼び戻されてからは塾長としても活躍、教員としてだけではなく事務としても慶應義塾を支えました。明治42年11月没。重病で自分の名前を話すことすらおぼつかないほどでしたが、「福澤先生」というときはしっかり発音したといいます。
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