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ふるさとの文化財探訪 第111回

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大分県九重町

『九重町を走ったもう一つの鉄道』

野上公民館主事 伊東雄太

九重町には、町を横断するように久大本線が通っており、現在でも多くの方々の足として重要な役割を担っています。しかし、町内にはもう一つの鉄道が存在していたことをご存知でしょうか?
今回は、懐かしく新しい、そんな鉄道のお話をさせていただきたいと思います。
国鉄「宮原線(みやのはるせん)」は、昭和12年(1937年)から昭和59年(1984年)まで恵良駅から熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国駅(現在の道の駅小国)までの区間26・6キロを結ぶ路線で、町内には恵良から町田→宝泉寺→麻生釣に駅があり、観光や通学等の足として一日に6度、町内を往復していました。
宮原線の歴史は古く、大正11年(1922年)の改正鉄道施設法別表第113号まで遡ることができます。当時の計画によれば、佐賀県から福岡県、熊本県を通って豊後森駅を終点とする遠大なもので、佐賀線、東肥鉄道(いずれも廃線)として部分的に開通するものの、その構想の実現を見ることはありませんでした。
昭和12年(1937年)に恵良から宝泉寺が開通しましたが、太平洋戦争の激化で工事が中止。昭和18年(1943年)レールが金属供出に充てられるなど苦難が続きますが、関係者の努力で昭和23年(1948年)に営業再開。昭和29年(1954年)に肥後小国まで開通しました。
宮原線には、エピソードが多く残っており、ここでいくつかを紹介します。
・宮原線の町田駅があるため、神奈川県の町田市にある町田駅が町田駅を名乗れなかった。
・麻生釣駅は「男はつらいよ」のロケ地の一つであった。
・戦中戦後の物資不足もあり、一部が竹筋(ちくきん)、つまり鉄筋の代わりに竹を用いたコンクリートを利用している。
そんな宮原線ですが、昭和55年(1980年)の国鉄再建法の施行を受け、第一次特定地方交通線として昭和59年(1984年)12月1日をもって全線廃止となりました。
当時、宮原線を走った車両は、1両が鉄道博物館に、もう一両が宮崎市の公園で余生を過ごし、廃線の日に走っていた車両は今も鹿児島で現役と聞きます。
廃線跡は国道387号線のバイパスへと変わり、当時の名残として駅跡や、当時国道210号線とオーバークロスしていた橋梁の痕跡、信号の相互通行がある串野トンネルも残っているなど、今でも当時を偲ばせています。

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