『部落差別とは』
部落差別とは、日本社会の歴史的過程で形づくられた身分差別により、日本国民の一部の人々が長い間、経済的、社会的、文化的に低位の状態を強いられ、今なお日常生活の上で様々な差別を受けるなどしている、我が国固有の人権問題です。江戸時代には、一部の人々は農民や町民などとは別の身分とされていましたが、身分的差別の強化に伴って、交際、服装、髪型、住む場所など衣食住にわたる規制は厳しいものになりました。
江戸幕府が終わり、明治政府が成立して間もない1871(明治4)年に、いわゆる「解放令」と称される「太政官布告(だじょうかんふこく)」が出されました。これにより法令上、差別的な身分は廃止され、差別されていた人々も一般市民と同じであるとされました。
しかし、太政官布告は部落差別の解決に向けた出発点にはなりましたが、十分な対策は採られず、1872(明治5)年に作られた最初の戸籍「壬申戸籍(じんしんこせき)」には、旧身分の差別的な呼称が記載されたものもありました。また、地域によっては「解放令」に反対する一揆が起き被差別部落が襲われる事件も発生しました。制度的に身分差別はないこととされましたが、実態として差別は残されたままでした。
さらに、職業の選択が自由になったことにより、それまで被差別部落に住む人々が主に携わってきた特定の職業に、様々な人々も就くようになり、被差別部落に住む人々が職を失うなどかえって経済的に苦しくなったともいわれています。
大正時代になると、被差別部落に住む人々の生活を改善することを目的とした、政府、地方公共団体、各種団体合同による事業の取り組みが見られましたが、十分ではなく現実の厳しい差別の解消や人権意識の向上というところまでは至りませんでした。
しかし、差別を受けていた人々も厳しい状況を無条件に受け入れたわけではありません。1922(大正11)年には全国水平社が結成され、「水平社宣言」が宣言されました。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉で結ばれたこの宣言は、長い間差別されていた人々が自ら声を上げた世界初の人権宣言ともいわれています。全国水平社を中心とした自主的解放運動は全国に広がっていきましたが、昭和時代に入ると戦争が激しくなり、全国水平社の活動も停止を余儀なくされました。その後、部落差別解決に向けた本格的な取り組みは第二次世界大戦後になるまで行われませんでした。
「解放令」から百数十年を経た現代でも被差別部落に対する偏見や差別意識により、様々な社会的不平等や差別が存在しています。部落差別は、基本的人権が侵害されていることが問題であり、私たち一人一人が解決に取り組まなければなりません。部落差別問題を正しく理解し、一人一人の人権が尊重される社会の実現を目指しましょう。
人権尊重・部落差別解消推進課
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