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ふるさとの文化財探訪 第129回

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大分県九重町

『謎の4世紀』

文化財調査委員 佐藤 頼久

令和五年十一月二一日~二二日、文化財調査員の研修旅行で、岩戸山古墳→伊都国→吉野ヶ里へと視察を行いました。それら文化遺産に圧倒され感銘を受けました。そして、邪馬台国について興味がさらに湧き上がり研究をしました。結論として、松本清張氏と同様に邪馬台国の北部九州説を主張します。織田信長の時代すら、天下統一は畿内一円に限られていました。当時、倭国は、今のソウルから北部九州一帯で、三十余国あったと思われます。魏の曹操より卑弥呼に金錯鉄鏡(日田市のダンワラ古墳より出土)が下賜され、それを模倣して239年刻印の田川郡香春岳産の銅を用いた三角縁神獣鏡を多数製造したようです。3世紀末の魏書東夷伝に朝鮮半島南部で鉄鉱石が採掘され、板状に加工した鉄鋌が農具や武器の材料として運び込まれていました。それ以前の五七年後漢の武帝より「漢の委奴(伊都)国王」の金印を付与されました。このように中国→朝鮮→北部九州へと当時最先端の文化遺産が沢山もたらされました。
4世紀は空白の一世紀であり、歴史学者たちにとって謎となっています。何より重要なのが東から西に征服がなされたのではなく、西から東へと征服していったという方が納得がいきます。古事記・日本書紀に明記されている神武東征は、いつの時代に行われたのでしょうか?BC660年の神武建国年はありえないとすれば、渡来人がやたら来ている応神天皇の時代ではないでしょうか!秦氏、漢氏、呉氏、王仁氏の渡来人の数が半端ないです。一族が数百から数千、秦氏にいたっては一万人以上いた程、膨大です。歴史学者の井上光貞氏は「応神天皇始祖論」を大々的に展開しました。宇佐地方に集結した渡来人一行は、筑紫の岡田宮を経て、安岐国、吉備国に各々七、八年滞在し、河内へ到達し、その後、八咫烏の先導により熊野から大和の宇陀へ入ったのでした。全国八幡社の総本宮である宇佐神宮の祭神は神功皇后と応神天皇であることも一考に値します。応神、仁徳天皇陵は、それ迄の地方豪族の前方後円墳でなく圧倒的言語筆舌に尽くし難い巨大墓であることも征服王であることを示しているのではないでしょうか。

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