今回は挾間町にある、狭間氏五輪塔群(県指定重要文化財:史跡)、石造五輪塔三基(県指定重要文化財:建造物)の紹介です。
はさま未来館付近、龍祥寺(りゅうしょうじ)の墓地に、25基以上の石塔類があります。この一帯が狭間氏五輪塔群です。この中の3基が建造物として、史跡とは別に指定を受けています。
五輪塔とは、平安時代末期からみられるようになった墓および供養塔で、日本独自のものです。素材は石、金属、鉱物、木などが用いられました。
これらの五輪塔は、かつて大友氏に仕え、挾間地域を治めていた狭間氏の墓です。建造物として指定されている3基は、初代直重(なおしげ)、二代重泰(しげやす)、三代直親(なおちか)のものとなります。
狭間氏は大友二代親秀(ちかひで)の四男直重を始祖とする系譜を持ちます。元寇や室町時代の混乱期に多くの功績を挙げ、北九州方面に所領を与えられるなど、大友家の一族としてその繁栄を支え、重臣としての地位を固めます。戦国時代となり、大友宗麟が領国経営を進め、豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後の六か国の守護大名となり、永禄2(1559)年に九州探題に任じられると、大友氏は名実ともに最盛期を迎えます。
しかし中国地方の毛利氏、西北九州に台頭してきた龍造寺(りゅうぞうじ)氏との争いで徐々に勢力をそぎ落とされていきました。天正14(1586)年、薩摩の島津氏が九州制覇を狙って軍を動かし、豊後に侵攻します。狭間氏十四代鎮秀(しずひで)は庄内の権現嶽城(ごんげんだけじょう)に籠城(ろうじょう)して島津氏を迎え討ち、少勢ながら奮闘しますが、抗いきれず、やむなく単独講和に応じます。大友22代義統(よしむね)はそれを裏切りとし、湯布院の地で鎮秀を落命させます。
鎮秀の墓は湯布院町にあり、史跡五輪塔群の中には被葬者不明のものもありますが、かつて大友氏を支え、挾間地域を治めた一族のほとんどは、この場所で眠りについています。
問合せ:社会教育課
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