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まるごと博物館 211

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大分県竹田市

■戦後の教育に情熱を注いだ 古庄 豊
古庄豊翁は明治29年1月3日大野郡小富士村草深野(現豊後大野市緒方町)の足立家に生まれ、昭和初期荻村南河内の古庄家に養子として迎えられた。
大分県師範学校を卒業後、佐伯高等女学校や佐伯中学校等の教壇生活を経て大分県立第二高等女学校長を務めた。昭和22年荻村では、戦後教育の大改革となった教育基本法、学校教育法の公布を前に中学校設立協議会を開催、当時第二高等女学校長だった古庄豊翁を校長として招聘することを内定。翁は当初竹田中学校(後の竹田高校)を希望していたがふるさと荻村からの要請を受諾した。
校舎は荻青年学校、荻家政女学校、終戦末期に整備されたグライダー滑空訓練所を当て、生徒数251人、6学級の初代荻中学校校長として昭和22年4月に着任した。
23年には校訓「信実 研鑽 勤労 創造」を制定。その精神は今も緑ヶ丘中学校に受け継がれている。
24年柏原中学校長を兼任。戦後の混乱期の中で荻・柏原両中学校の統合に尽力し、その努力が実を結んで昭和27年4月には念願の柏原・荻両村組合立「緑ヶ丘中学校」が開校。町村合併前のことである。
ご子息によると「父は勤勉でまめな人、何事も面倒くさがらず良く動いた。文章を書くこと、毛筆が得意で旧緑ヶ丘中学校の校門に掲げていた板版「緑ヶ丘中学校」の文字は父が書いた」と聞いている。
山本有三の「路傍の石等を愛読していた」ということである。翁は昭和27年2月に初代教育長に選任され、68歳で亡くなる2か月前まで教育長として、12年9か月学校教育、社会教育の進展、人材の育成に情熱を捧げ尽くしてこられたその功績は大きい。

参考 荻町史
(猪野 一男)

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