■瀧音楽祭生みの親 浅原健三(あさはらけんぞう)
浅原健三は1897年、福岡県の現・宮若市に生まれました。1915年に大学を中退して労働運動に参加し、皆さんもよくご存じの「女工哀史」時代に、今では当たり前の週8時間労働を確立するために奔走します。
その後、福岡県選出の代議士を2期務めますが3度目は落選します。また、治安維持法で国外追放となり中国で生活。実業家として活躍し、後に岡城を買い入れる財産を築きます。1944年には東条英機暗殺計画の容疑で拘束され、東京に護送されました。翌1945年2年に釈放され別府の自宅に帰りますが、依然追われる身が続き竹田に逃れました。
▽浅原健三と竹田
ここから浅原と竹田の関わりが始まります。竹田の写真館に身を潜めていた浅原は、財政的にひっ迫していた竹田町から岡城の一部を買い上げたのです。今日の本丸下から下原門に至る城跡です。
浅原は、城跡が藪(参考文中ではブーセンと表現)になっているのを嘆き、下刈りを始めます。また、福岡から腕のいい石工を五人呼び寄せ、彼らを3か月滞在させて石垣の修復に当たらせると、岡城は見違えるように再生しました。浅原は敗戦に打ちひしがれた町民を慰めようと、1947年に岡城跡で瀧音楽祭を始めました。仙台から土井晩翠をも招いたのです。
岡城の音楽堂跡入り口には浅原健三を称える小さな石碑があります。福岡生まれの一人の男性が、竹田に瀧音楽祭を誕生させ、岡城跡を瀧廉太郎の名とともに輝かせたこと。それは浅原健三だったからできたことなのです。
浅原健三は1953年、岡城の土地を合併前の竹田町に返還し、1967年に72歳の生涯を閉じました。浅原の始めた瀧音楽祭は、今年で78回を迎えています。
(衛藤頼光)
参考:竹田の陰の豪傑達
<この記事についてアンケートにご協力ください。>