■家郷を大切にした医師
衛藤(旧姓廣瀬)敦夫は安政6年(1859)に竹田で生まれました。父は廣瀬重弘です。幼少は郷里で過ごし、明治11年(1878)19歳の時上京して東京帝国大学医科選科(現東大医学部)に入学し、明治17年(1884)25歳で卒業しました。学力優秀により同大学に残り医療の研究を勧められました。しかし、21歳の時、竹田町の衛藤龍蔵と養子縁組していたことから、大学での研究を諦め帰郷して養家を継ぐことにしました。
大学同窓生の6、7人は、すでに県や大きな病院の院長に迎えられている人もいて、羨望もありましたが養家の懇請もあり、卒業と同時に竹田の寺町で開業することになりました。
一生を地方で医業に携わることを決意したものの、当時の竹田地方では江戸時代から続く漢方医が多く、診察は椅子に腰かけたままの患者を診るという状況でした。寝台(ベッド)や手術台などの医療器具は普及していませんでした。そこで、大学で学んだ最新の医療を採り入れることにしました。新しい診療法を地域の人々が珍しがり、次々と診察に訪れるようになりました。
診断は優しく丁寧なことから、医者というより慈父のように慕う患者も増えていきました。また、往診の依頼も多く多忙な日々が続きましたが、わけへだてなく診察したことから医聖と呼ばれるようになりました。
医業のかたわら俳句や詩文を好み画は南画会の水石会に属し画作を楽しみました。号は半仙(僊)と言い、竹田水電株式会社(水力発電)を創設した黒野猪吉郎(号は一朝)と合作の南画などが残っています。廣瀬重武は兄で、廣瀬武夫は甥になります。
(敬称は省略しています)
参考:藤田三平「裾野」、「大分県画人名鑑」
(本田耕一)
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