■並石城(なめしじょう)
芹川ダムの堰堤の隣、野津原町側にある里山の山頂付近が城址。城主は田北氏の一族、塩手氏である。
並石城は歴史の表舞台には天正14(1586)年、島津氏が豊後に侵攻した豊薩合戦の折に登場する。双石城とも記され、島津側の記録に出てくる「滑」という城もこの城を指すのかもしれない。
肥後方面から侵攻した島津義弘勢は祖母山麓から片ヶ瀬を経て白丹、朽網、一万田と、岡城こそ落とせなかったものの燎原(りょうげん)の火のごとく大野、直入郡を蹂躙(じゅうりん)した。その勢いで松牟礼城の田北鎮利を降伏させた島津軍は続いて並石城を攻めようとした。まず、使者を送り降伏を勧告したが城主の塩手鎮貞が拒否すると、義弘は配下の田中備中守に田北鎮利を案内役として攻めさせた。
田北としては人質もとられているだろうし兵も少なく断りようがなかったであろう。
田中備中守は周辺の地理をよく知っている田北兵を城内に入らせ放火させた。この合戦で鎮貞以下300人が討ち死にし、鎮貞の子の亀若丸は捕らえられ薩摩に連れ去られた。(亀若丸は幸いなことに後に豊後に帰ってきたが、帰れなかった者は大勢いた。要は奴隷である)。松牟礼城が降ったと同じ11月11日のことである。
戦国時代の話は物語としては誠に華々しいが、現実はこのように悲惨なこと極まりない。また、この時、上藤目の北にある十字原(重地原)でも島津勢と塩手勢が激しく戦ったという伝承がある。塩手井路の記念碑があるあたりである。
(馬場尚登)
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