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まるごと博物館 222

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大分県竹田市

■馬背野井路
明治時代へと時代が大きく変わり、荻地域は大野川の上流熊本県高森町から水を引き、荻台地を開田する大規模な開発計画を国に提出し、明治24年「荻村柏原村普通水利組合」の地域指定を受け事業に着手しました。しかし、あまりにも大規模な計画であったため事業は思うように進みませんでした。
そんな中、馬背野の管甚内、野村勘三郎、管牧三郎、工藤長五郎等は「普通水利組合」から離れ、馬背野と恵良原の一部を潅漑する水路を計画。当時の荻村長後藤哲彦や前村長で荻柏原村普通水利組合の発案者であり総理の工藤祐鎮等に相談、独自計画の了承を取り付けました。
設計施工は、元大分県土木技師で後の豊岡村村長になった工藤虎彦に依頼しました。
水源は山崎川の岩戸橋下流、瀬河内に井堰を設け、その殆どを降積火山灰層、つまり灰土をトンネルで掘り抜いて水を引く工事で、明治29年9月7日に着工、翌30年5月5日に幹線水路3、500メートル、支線水路3、000メートルが工事費3、765円(当時)で完成しました。
当初は開田面積13・5ヘクタールでしたが、その後水路の改修等が行われ、多いときには排水面積40・5ヘクタールまで拡張され、馬背野の米は美味しいと評判になりました。
ちなみに、それから46年後の昭和15年荻柏原土地改良区の大谷ため池が高森町に完成、先人たちの荻台地開田の夢が実現しました。
その後、馬背野井路は米の生産調整や少子高齢化が進む中、今では組合員14名、排水面積5・8ヘクタールにまで激減、その存続が危ぶまれています。

参考 馬背野渠碑 荻町史
(猪野一男)

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