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交野に残る家康の足跡

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大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■決戦前、家康軍が軍旗を掛けた新宮山
慶長20年(1615)5月5日、豊臣家との最後の戦いに向け、家康は京都二条城を出発し、市橋(いちはし)長勝(ながかつ)が護衛する星田に入り本陣としました。そして、新宮山(現在の星田公園)に立つ松の木に軍旗の白旗を掲げました。ここで祀(まつ)られていた八幡神(はちまんしん)が家康の祖とされた源氏の守り神であったためと考えられています。この松は「旗掛松」という名で知られ、現在も3代目が保存されています。
家康は星田の村長である平井家に宿泊。当時、屋敷は水堀で囲まれ堅固なものであり、平井家は家康を迎えるために奥書院を修繕して準備を整え、堀で取れた鯉をもてなしたと言います。

■星田からいざ出陣、東高野街道を行く
家康の星田到着を受けて、徳川(とくがわ)秀忠(ひでただ)や本多(ほんだ)正信(まさのぶ)ら重臣が平井家に集まり軍略会議が開かれました。豊臣軍の不意打ちに備え、家康の軍勢が星田から打上に野営し、平井家を護衛しました。
翌日、秀忠からの使者によって豊臣軍の軍勢が野戦に討って出たことを知った家康は、勝利を確信して星田から出陣。伊賀越えの際にも通った東高野街道を進軍することになりました。家康が宿営した平井家の屋敷跡は後に「御殿跡」と呼ばれ、家康から平井家に葵の紋の入った銅製の火入れ、湯呑、陶器の皿が送られました。これは伊賀越えで助けられた礼であったのかもしれません。

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