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交野に残る家康の足跡

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大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■徳川大坂城の築城と磐船神社

家康の死後、将軍徳川(とくがわ)秀忠(ひでただ)のもと、全国の諸大名が動員され、大坂城が修築されました。これは焼け落ちた豊臣大坂城に大規模な盛土をしてかさ上げをし、そこに徳川大坂城を築くという大がかりな工事でした。太閤秀吉の膝元であった大坂で、徳川の権威を広く示す意図があったといわれます。
大々的に行われた大坂城修築にあたっては全国各地から資材が調達されました。この中で生駒山系からは石垣の石材が切り出されました。その痕跡は私市の磐船神社にも残されています。
同社の御神体である天の磐船(写真)という巨岩の頂部には「加藤肥後守石切アイリ」(拓本)と刻印されています。そして、神社に伝わるところでは、加藤(かとう)清正(きよまさ)の石工が豊臣大坂城築城のために運び出そうとしたところ、血が流れ出したために中止されたと言われています。
ただ、清正の息子、加藤(かとう)忠広(ただひろ)も肥後守を名乗り、徳川大坂城の石垣工事を担当していることや、天の磐船は豊臣期の城郭の石材としては大きすぎることから、徳川大坂城の築城の際に加藤忠弘の石工が石材として手をつけたことを示すために刻印を施したものの、何らかの理由で運搬を断念したものと考えられます。

徳川大坂城の石垣は、各大名が競うように巨石を調達していることで知られており、特に高さ5.5m、幅11.7mの蛸石が最大のものとして有名です。なお、これは城に用いられる石としては日本一の大きさとも言われています。一方で天の磐船は縦12m、横12mの大きさがあり、もし大坂城へ運ばれていたら、加工されたとしても最大級の石の一つとなっていたでしょう。
また、この頃加藤家の石工が私市周辺に来ていたことは間違いなく、天の磐船以外の磐船峡内の巨岩を石材として利用したと考えられます。徳川家による大坂復興は、交野にも影響を及ぼしていました。

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